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2017年1月23日 (月)

ブリコラージュと資源論(Bricolage and theory of resources)

おとぎ話の魔法使いや旧約聖書の創世記とは異なり、我々が暮らすこの世界で《無》から《有》を捻り出すこと(create)はできない。

フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブ François Jacob の言葉を少し引いてみる。

 エンジニアとは違い、進化は、ゼロから新たなものを作り出すことはない。進化は、すでに存在しているものに作用して、ある系を新しい機能を持ったものに変換したり、いくつかの系をより複雑なものにすべく組み合わせる。自然淘汰は、人間の活動のいかなる面とも類似点を持たない。あえて何かになぞらえるとするなら、この過程は、エンジニアリング(engineering)ではなく、ティンカリング(tinkering)、フランス語でいうブリコラージュ(bricolage)に似ていると言わねばなるまい。(P.45)

ブリコラージュにおいては、同じ問題に興味を抱いても、出会った機会によって、それぞれの人間が異なった解決法に至るだろう。(P.48)

それぞれの事例において、自然淘汰は、その時の手持ちの材料で、できる限りのことをしたのである。(P.49)

最後にエンジニアリングとの違いとして、ブリコラージュは仕事をより完全なものにすべく、しばしば新しい構造を古い構造に、置き換えるのではなく、付け加えるという点がある。(P.49)

以上すべて、フランソワ・ジャコブ『可能世界と現実世界』みすず書房1994 、「進化のブリコラージュ」より

当ブログでも、設計図とレシピの比較を話題とした中村桂子のエッセイにこと寄せて論じたことがある。

レシピと設計図 その科学哲学風考察

そして、料理はまさにブリコラージュそのものと言えよう。料理上手な人間は、冷蔵庫に残っているあり合わせの材料から、手品のごとく、美味しい数品を出現させる。

人はゼロから何かを創り出すことはできないし、周辺に資源 resources があるからこそ立ち振る舞える。資源には、目に見えるモノだけでなく、目には見えない、観念、思想、伝統、制度、慣習、習慣といったものも実は含まれる。たとえ眼前に立ち塞がっているようにしか見えない伝統や分厚い歴史でさえ、人間行動を制約するものではなく、かえって行動を楽に、自由にするものと考えるべきなのだ。

従って、フランソワ・ジャコブには恐縮だが、エンジニアでさえ、そしてエンジニアリング(工学)でさえ、そのイノベーションの現場では、エンジニアの周辺に物理的に転がっているmaterialな資源や、エンジニアの頭の中の記憶のネットワークに、数珠繋ぎ状態で格納されているデータがimaginaryな資源として動員されている。一見、material な機械であっても、そこには過去の人びとのideaやimaginationが投影、化体されており、エンジニアはそれとは自覚せずに、過去の人びとの観念を資源として見ていることになる。猫や犬はいくら腹を空かせていても冷蔵庫を開けようとはしないだろう。矩形の金属の直方体を「冷蔵庫」として成り立たしめている「食料保存庫」という観念ideaを、彼らはその鉄の塊に読み込まないからだ。

人間の歴史は、所与の諸資源(resources)から人びとが織りなすブリコラージュ bricolage である。

この歴史観は、思想史家関 曠野の「ミメーシス史観」とは、西欧の「創世記」史観と相いれない点で共通の陣営にいるが、歴史に何を見るか、という指向性において基本的に異なっているようだ。

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