「寄生地主」とジェントルマン
「寄生地主」という言葉に違和感が前々からある。
■ジェントルマン
高校日本史の教科書でも使用されている普通の講座派用語(?)なのだが、どうも私にはしっくりこない。なぜなら、日本史学での使用文脈ではネガティブなニュアンスなのに、イングランド社会の近世・近代を一貫して指導した身分はジェントルマン(貴族+ジェントリ)で、彼らの実態はとどのつまり、「寄生地主」階級だから。
現代のUKでも、「ジェントルマン」への仄かな憧れが生き続けているのは、「ハリーポッター」の学生生活がパブリックスクールそのままであることに滲み出ている。
■モデルとしての西欧像におけるエラー
近代日本人は、西欧の近代化、就中、英国の近代史を憧憬の眼差しで見つめ続け、自らのモデルとしてきた。その近代英国をリードしてきた人間が事実上「寄生地主」であるのに、なんで自国の同じ階層・階級にこうまでネガティブなのか。
■自虐史観?
これは、英国近代を推し進めてきたのは「中産的生産者層」という人間類型だという大塚史学の誤解(虚妄?)が災いしているように感じる。
つまり、明治以降の大学アカデミズムで形成されてきたモデルとしての「西欧近代」像に深刻なエラーがありそうだということ。そして、それを思考枠組として、《自国史としての日本史》を裁断してきた、という二重のエラーが存在し、そのひとつの現われが「寄生地主」である可能性を否定できないと思われる。
■「である」から「する」へ
丸山真男の、前近代「である」価値から近代「する」価値へ、というシェーマも同様だ。21世紀の現代でさえも、欧州(UKを含む)は社会の基本的価値観は身分の尊重・憧憬という「である」価値だ。これが通じないのは、古い西欧へ反逆して形成された「する」価値社会(リセット主義者たち)の米国だけである。ちっとも西欧社会にフィットしない。
■近代化モデルとしての西欧、現代化モデルとしての米国
日本の戦後アカデミズムは決定的に米国化、米国依存してきた。実はアメリカナイズは明治の御代からだが、それはまあいいとして、我々の近代像(理念としてのmodernity)にはかなり深刻な歪みが潜んでいることは自覚しておいたほうがよい。
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