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2017年1月 1日 (日)

12年目のつぶやき

弊ブログも悦ばしい(?)ことに12年目を迎えた。

私は幼少の頃からあまり物事を記憶していられなかった。今思えば自分の興味を引くものだけが長期記憶に残り、その他は削除されたらしかった。したがって、目覚ましい学業成果を残したことは自慢ではないが(全く自慢にならないが)皆無ということになる。

人は、メモ(備忘録)というものをする、ということを知ったのは、大学に入り、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)を読んだ時だ。亡父あたりが私にその辺のことをビジネススキルの応用で伝授してくれていれば学業も目覚ましく(?)改善されていただろうに、と今は思う。我が子が忘却体質だ、などということは、十数年も観察していればわかりそうなものだからだ。如何せん亡父も子供のことより己のことに関心がある人間だったので、その方面に(我が子の教育に)己の知的リソースを使うことなど考えが及ぶ訳がなかった。

亡父が天界から如上の箇所を読んでいるとまずいので急いで弁明しておくが、これは故人への文句ではない。他人(ひと)のことなど眼中になく、最大の関心は己、というのは、恥ずかしながら弊ブログ主も同病だ。したがって、ああ、蛙の子は蛙、という嘆息に過ぎない。

本記事を読まれている諸氏が人の親であるならば、後々、もし子が父親に感謝するとすれば(母親ではない)、こういう、ちょっとしたことではあるが、その子供本人にとって大きな意味を持つ、具体的で、父親の仕事 business の経験から抽出し洗練された知的スキルをコーチすることだと思っておいた方がよい。父親的な愛情はこういうことを通じても伝わるものだ。直裁に申し上げて、この方面は母親の任ではない。仕方のないことである。

道具としての知的スキルに関する限り、学校も塾・予備校もあまりあてにならない。こういうちょっとしたことが知的活動の生産性を劇的に向上させるものだ、という注意 attention は、残念ながら、現在でも教育業界や大学の場であまり共有されていない。だから businessの現場の荒波を越えてきている父親こそが適任だろう。教育関連の、大学も含めた「業界」には、善かれ悪しかれ business の感覚が希薄なのだ。これは、千年に及ぶ儒家思想(というか経学※1)の伝統が背景にあるので致し方ない面もあるが、夏目先生の叱責を受けるとしても、21世紀の今、もう少し改善の余地があるやに思う。

※1 「大学」、「小学」、という名辞は朱子学の伝統(それぞれ朱子学のテキスト名)のなかから、明治期に選択され利用された歴史的リソースである(「御一新」による日本の朱子学化)。

閑話休題。

結局、弊ブログも、頭の悪い私にとり、このメモがわりということになる。

だから、ほとんど何の脈絡もなく、記事が並ぶことになる。アイデアはいくらでも湧き出すが、一日、二日経過すると本当に完全に忘却している。忘れていること自体忘れていれば、精神衛生上問題は残らないのだが、意外に、「ああ、すげぇいいアイデア、画期的アイデアを確か思いついたはずなのに・・・。」というアイデアの感触だけが脳裏に残ったりするので、始末に悪い。その真価が如何ほどのものかは、問いようがない。先述したように、私は根本的に自己中心的な人間で、恐らく亡父と同じで、己はすごい人間、(少なくとも)知的には人類史に貢献できる人間と(秘かに?)自覚している人間なので(笑)、過去の自分の貴重なアイデアが虚空に消失してしまうことが耐えられない(大笑)訳である。

元旦ということで愚かなことを書いた。

上記のように、私は結構、いい加減、テキトーな奴なのである。不逞の輩なのだ。したがって、やむを得ず、私にも、体質として、知的に馬が合う人物と、知的に畏敬する人物の二つのカテゴリーができてしまう。

簡単にいえば、to be 指向の人間と、ought to be 指向の人間である。好が前者、敬が後者である。

私にとっての知的恩人は、私の書庫にある本の著者たちだ。その中で、思いつくままにカテゴリー分けすると、

 

                                                   
 

to be 指向群

 
 

ought to be 指向群

 
 

梅棹忠夫

 
 

 

 
 

丸山真男

 
 

 

 
 

 

 
 

大塚久雄

 
 

 

 
 

Max Weber

 
 

 

 
 

塩沢由典

 
 

 

 
 

 

 
 

渡辺慧

 
 

 

 
 

関曠野

 
 

Jules-Henri Poincaré

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

Isaiah Berlin

 
 

 

 
 

 

 
 

John Stuart Mill

 
 

 

 

となる。ちなみに、順番は、私が彼らの著作に出合った順だ。

梅棹忠夫は、「(知的に)面白ければいいじゃない?」、という立場だし、渡辺慧は「使えるものは何でも使ってみる」、ポアンカレなぞ「真理だから役に立つのではない、役に立つから(当面)真理に近いと考えてもよいのだ」といった感じで、こういうメンタリティは私に居心地がよい。

今年の抱負など持たず、出たとこ勝負でできることをやっていくしかないというのが、年頭の所感じみたものとなる。

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