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2017年3月17日 (金)

石井紫郎「近世の国制における『武家』と『武士』」1974年

本論文は、比較国制史研究における日本を代表する業績であり、日本における《近世 early modern》の持つ人類史的意味を知るための必読文献でもある。

石井紫郎「近世の国制における『武家』と『武士』」1974年

目次
一 はじめに 本書の構成をめぐって
二 武士の家訓と近世の国制
 1.問題の所在
  2.近世主従制とレーン制
  3.「職分」の体系 その一
  4.「職分」の体系 その二
  5.ヨーロッパの官職売買
 6.「家」と「家職」
 7.「職分」と「名分」
 8.「職分」の体系と主従制
三 赤穂事件と近世の国制
 1.「公の義理」と「私の義理」
 2.残された問題

岩波書店・日本思想大系27『近世武家思想』1974年刊石井紫郎校注、P.477所収
石井紫郎『日本国制史研究II 日本人の国家生活』1986年刊東京大学出版会、P.167所収

さて、本論文でもっとも興味深い記述は以下である。

要するに、ヨーロッパにおいては生得の地位と官職との二元性を前提にしつつも、現実において、de facto にも、de jureにも、後者が前者にひきよせられていったのであり、これは、わが近世において右の両者が「職分」概念の下に一元的にとらえられ、しかも前者が後者にひきよせられていったのと、まさに逆のヴェクトルを示している。
①P.510、②P.194

ここで、《生得の地位》⇒《であること》、《官職》⇒《すること》、と置換すれば、近世ヨーロッパでは《すること》が《であること》化し、近世日本では《であること》が《すること》化する傾向を有していたことになる。これは、下記の高名な、丸山真男の指摘と真逆の歴史的推移ではなかろうか。

身分社会を打破し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」価値・「する」論理への相対的な重点の移動によって生まれたものです。
丸山真男『日本の思想』(1961年)岩波新書、p.157

 

続く(はず)

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