「American way of life」の起源(2)
前回の続き。
米国の大学(高等教育機関)の進学率が10%ラインを突破するのが、1940年頃。南北戦争前後(1861-65)は微々たるものだから、70年間かけて達成したことになる。一方、20%ラインを超えるのは、1950年頃。
つまり、最初の0→10%は70年かけて超えたのが、次の10%→20%は10年間で超えている。WW1とWW2の戦間期にもじりじりこの数値は上昇しているが自然増の範疇。しかし、WW2を挟んだ10年間で激増した。これはWW2の米国社会に与えた影響の深刻さであるとともに、史上最大の人工国家米国において、社会の仕組みが不可逆に変化したことを我々に示唆する。
有史以来、階層(hierarchy)を持たない人間社会はない。これを前近代の《身分社会》の特徴と見なして、近代化を成し遂げた今の社会とは無縁なことだ、と考えるようなら、それはかなりナイーブな誤解というべきだ。
革命後のフランス国家においても、1800年、ナポレオン1世の庇護下に設立されたフランス銀行の株主200家族はその後長く「特別な」家系とされたのは公然の秘密だ。複数の人間が暮らす社会/国家には秩序が必須であり、それは端的に言って「支配と服従」によって形成される。多数者が少数者に支配(統治)されることに例外はない。現に、2017年の現代日本人たちも、安倍晋三首相以下、自民党与党に支配されている。
統治する側と統治される側。これが社会の免れ難い実態なのだとしたら、問題はこれをどう正当化する(=言い繕う)か、ということに帰着する。身分社会であれば、昔からの《統治する身分》(あいつら them)と《統治される身分》(おれたち us)と言われれば、「はあ、そうですか」と納得せざるを得ない。
しかしながら、様々な要因から、身分社会とその原理が動揺し、尊貴な人々と卑賎な人々の中間に、分厚い市民層(business class)が出現し、単純な二分法の区別が有効ではなくなる(すなわち《資本主義》が勃興してくる)と、そういう言説の説得力が色褪せてくる。
すると、当然、新手の言説が出てくる。「教養と財産 education and property」を有する人々が統治し、そうでない人々が統治される人々、と言う訳である。これがヨーロッパの近代において普遍的な原理原則となった。そして、実は21世紀の今でも、西欧の現実であり、当たり前であり続けている。前回記事における、米国の高等教育機関の進学率が容易に10%を超えなかった、ということは、事実上、WW2以前の米国も、その例に漏れるものではなかったことを我々に示すだろう。
米国哲学の父たち、プラグマティズムの、パース、ジェームズが、19世紀末のハーバード大学の極私的なサークル「形而上学クラブ」の会員だったということなどは、彼らが「教養と財産 education and property」ある人々の一員であることを物語っている。
次回へ続く(予定)
〔参照〕
新古典派経済学の起源
| 固定リンク
「国制史(Verfassungsgeschichte)」カテゴリの記事
- Otto Brunner, Land und Herrschaft : Grundfragen der territorialen Verfassungsgeschichte Österreichs im Mittelalter, 1939(2024.06.08)
- 対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案(昭和十六年十一月十五日/大本営政府連絡会議決定)/Japan's Plan to Promote the End of the War against the U.S., Britain, the Netherlands, and Chiang Kai-shek 〔November 15, 1941〕(2024.06.02)
- 書評:関 良基『江戸の憲法構想 日本近代史の〝イフ〟』作品社 2024年3月(2024.05.13)
- Seki Hirono and Feminism (1)(2022.05.06)
- 関 曠野とフェミニズム(1)(2022.05.06)
「資本主義(capitalism)」カテゴリの記事
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋〔書評①〕(2024.09.16)
- Seki Hirono, Unearthing the Forgotten History of Ideas, 1985(2024.07.14)
- 関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月(2024.07.13)
- Glorious Revolution : Emergence of the Anglo-Dutch complex(2023.05.13)
- 弊ブログ主のインタビュー記事、第2弾(2023年2月)(2023.02.08)
「生活史 (History of Everyday Life)」カテゴリの記事
- ドラード和世陀:日本の カサ・ミラ〔2〕/ Waseda El Dorado: Casa Milà, Japón〔2〕(2023.09.20)
- 沢田マンション:日本の カサ・ミラ〔1〕/Sawada Manshon: Casa Milà, Japón〔1〕(2023.09.19)
- 日本の若者における自尊感情/ Self-esteem among Japanese Youth(2)(2022.09.28)
- 現代日本における「貧困」ー国際比較/ Poverty in Contemporary Japan: An International Comparison(2022.09.26)
- 菊池寛「私の日常道徳」大正十五年一月(1926年)(2022.06.26)
「pragmatism」カテゴリの記事
- Kimura Bin, "Il sé come confine", 1997(2023.12.31)
- Kimura Bin, "El yo como límite", 1997(2023.12.31)
- Kimura Bin, "Le moi comme frontière", 1997(2023.12.31)
- 木村敏,《作为边界的自我》,1997 年(2023.12.31)
- Kimura Bin, The self as boundary,1997(2023.12.31)
コメント