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2017年8月16日 (水)

東浩紀『観光客の哲学』2017年4月、を巡る雑感(2)

 本書の理解に役立ちそうなものに気付いたので、2つ付け加えておくことにする。私は、その言説にどこまで同意するかは別として、東浩紀が志のある言論人であると諒解した。

Ⅰ.東浩紀氏インタビュー(聞き手=坂上秋成) 哲学的態度=観光客の態度 『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

Ⅱ.特別鼎談 ポスト・トゥルース時代の現代思想(浅田彰、東浩紀、千葉雅也)
雑誌『新潮』2017年8月号所収

 以下はそこからの抜粋。

Ⅰ.

たとえばいま、ぼくの本は國分功一郎さんや千葉雅也さんの新刊と並べられています。お二人ともいい書き手なので光栄ですが、でもぼくは彼らとは違う世界に属している。実際にぼくは大学人ではない。同じように、批評や文芸評論の人たちともタイプが違う。ぼくの仕事が、常識的な批評や哲学からすると奇抜に見えるのは、そのような人格の差によるものだと思います。そもそも、「観光」や「家族」という言葉を肯定的に使うのに違和感を覚えると言われても、現実には、哲学や思想をぶつぶつ読んでいるひとより、観光に行ったり家族をもったりして「幸せ」に生きている人のほうがぜんぜん多いわけです。数が正義というわけではないけれど、観光も嫌いで家族も嫌いで、ゲームもやらないしディズニーも見ないしショッピングモールもいかない、そういう人たちばかりが人文書を読んでいてどうなるんだろう、という違和感はあります。カントにしてもヘーゲルにしても、あるいはドストエフスキーにしても、テキスト自体は、そういう人格類型に関係なくさまざまな人たちに開かれているのであって、一部のひとたちだけがそれを独占しているのは異様です。そういう点では、本書は徹底して「アマチュア」の視点から書かれた哲学書です。それは内容が幼稚ということではなくて、大学人や文壇人とはタイプがぜんぜん違う、そういう立ち位置の人間が書いたという意味でアマチュアの本です。しかし、本当は、そちらこそが正しい哲学のすがたなんじゃないでしょうか。たとえば引きこもりとリア充という言葉があるけど、実際にはリア充のほうが世界には多いわけです。でもツイッターをやっていると、世の中引きこもりの「コミュ障」ばかりに見えてくる。それはそれで大事なことだけど、でもそれを真に受けていまの世界はコミュ障ばかりだとか言い出したら、単純に世界が狭いわけです。でも人文書の棚にはそういうところがある。あの世界にいると「単独者」だとか「切断」とか「他者」とか、そんな言葉ばかり聞こえてくるのだけど、それがどのような現実に結びついているのか見えてこない。世界には人文書以外にも素晴らしいものがいっぱいある。それを知っていてはじめて人文書の魅力もわかる。だから僕は大学もやめたし、こうやって一人で会社をやっている。そのうえで哲学書を書いている。

こういうこと言うといまの時代では無責任と罵られるかもしれないけど、そもそも思想とか哲学とか、もしくは文学でもなんでもいいんだけど、そういうことを考える人間にとって、本来この「2010年代の日本」なんてたいした問題じゃないと思うんですよね。ぼくたちはもっと100年とか200年とかそういう単位で、人間とは何かとか世界とは何かとかを考えるために生まれて来た。それなのに、たまたまこの2010年代の日本にいるからって、何でいつまでもこの現実につきあわなければいけないんだろうとは思いました。

繰り返しますが、いまの世界はポストモダンがますます深化している世界です。ポストトゥルースなんて流行語が生まれましたが、あれは要はポストモダンってことです。正義も実証も存在しなくなった世界でなにをするか。それこそがポストモダニズムが考えていたことではないですか。だから、この現実に対しては、ポストモダニストは、本当はポストモダンの理論を深めることでこそ応答しなければいけないのです。近代になんて帰れるはずがない。ぼくは、かつてデリダやフーコーやドゥルーズやボードリヤールを読んだ人間として、その責務を果たしているだけです。

昔のものを読んで、100年とか200年とかの単位でものを考えるというのは大切です。ここ10年のものしか読まないでなにかを語ろうというのは、根本が間違っている。この本をきっかけにして、人類とは何かとか、世界とは何かとか、文明とは何かといった大きな問題について世紀単位で考えるひとが、ふたたび増えてくれるといいと思います。

Ⅱ.

「・・・、ポストモダン思想全体の問題だと思うけど、われわれが全体性だと考えるものは意外と穴らだらけだった、という指摘の仕方をしていたわけです。でも、まったく同じことを逆に言うこともできる。つまりわれわれは、穴らだらけでも全体のようなものをつくることが可能なんだと。こちら側に反転させたとき、ポストモダンの思想はかなりクリエイティブに使えるのではないか、というのがぼくの考えです。」  P.133

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