« 日本銀行のバランスシート | トップページ | 西部邁への断章 »

2018年1月16日 (火)

越中女房一揆

 表題を見て、何のことかと首を捻る方が多いのではないでしょうか。これは、1918(大正7)年夏、富山県の魚津町から始まった、米騒動のニュースを取り上げたある新聞の見出しです。その全体像は下記の表をご覧ください。

米騒動〔1918(大正7)年〕
期間 1918年7月23日 1918年9月12日
(約50日間)
地域 1道3府38県の38市153町177村、計368か所
参加人員 数百万人
鎮圧人員 120地点に10万人以上に達する軍隊、及び警察
検挙者 検挙 2万5000人以上、検事処分8200人以上
影響 寺内正毅内閣退陣 原敬内閣 出現

 上記の規模を再考すると、60年安保かむしろそれ以上のインパクトがあったといえるのではないでしょうか。徳川期の都市騒擾、打毀(うちこわし)との民俗的連続性を含めて、この事件を日本近代史上において、既存の解釈とは別の文脈で考える必要があると感じます。

※上記データは、日本大百科全書(小学館)「米騒動(江口圭一筆)」より。

|

« 日本銀行のバランスシート | トップページ | 西部邁への断章 »

大正」カテゴリの記事

近現代(modernity)」カテゴリの記事

安丸良夫」カテゴリの記事

生活史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 越中女房一揆:

« 日本銀行のバランスシート | トップページ | 西部邁への断章 »