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2018年1月23日 (火)

西部邁への断章

 西部邁氏が1月21日、亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

 私、西部邁と昼飯を食べる寸前までいったことがあります。(笑)

 時は、1979(昭和54)年9月。当時、理論・計量経済学会と言っていた近経の学会の年次総会が、まだ目黒の八雲にあった都立大学(いまの首都大)であった時です。

 当時、私は大学3年で、たまたま大学キャンパスの広報掲示板で、そのポスターを見かけたのでした。そこにはいろいろな部会とその発表者、コメンテーターの名がありました。その発表者の一人に西部邁の名がありました。

 その頃は、彼は1975年に中央公論社から『ソシオ・エコノミックス』を出し
数年後で、新古典派経済学批判の論客の一人として既に著名でした。

 新古典派批判が一種のブームだったのです。例えば、こんな風。

宇沢弘文『自動車の社会的費用』1974岩波新書(青版)
      『近代経済学の再検討』1977岩波新書(黄版)
青木昌彦編『ラディカル・エコノミックス』1973中央公論社

 ただ、貧乏学生だった私がわざわざ交通費をかけて八雲まで出掛けたのは、そのポスターにコメンテーターとして塩沢由典の名があったからなんですが。

 西部邁の総合社会科学構想みたいな発表が午前にあり、そのセッション発表後、西部氏が昼飯に行こうという途中で捕まえて、幾つか質問をふっかけたのですが、西部氏が「歩きながら話そうか」というので、あれこれ話しながら歩きました。

 そしたら、西部氏はさすが東大助教授、すし屋に入ったんですね。私のポケットには往復の交通費くらいしかないのでビビってたら、「君は食べないの?」と来ましたので、慌てて「では失礼します」と、退散したという次第です。

 そのときの西部邁の言葉で記憶に残っているのは、
「僕は地図を描きたいんだ」
といったことですかね。新古典派の職業経済学者は大抵、職人的プロですから、西部邁がその枠に収まらなかったのは当然だったとは思います。

その年の学会会長は、置塩信雄(マル経の数理経済学者)だったのも変な感じでした。

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