« ライプニッツからマンデヴィルへ/ From Leibniz to Mandeville | トップページ | 三島由紀夫が誘(いざな)う、小説の楽しみ方 »

2018年6月24日 (日)

脳内の像の言葉を通じた次元低下とその復元 Reducing dimension of the image in the brain by words and its restoring

■脳内の像(image)
 人間の頭のなかの記憶は、一つ一つの塊(object)が連想の糸で繋がれ、数珠つなぎの形で格納されています。

 英単語を覚えたての中学一年生に、「木曜日は英語でなんて言う?」と尋ねると、大抵は指を折りながら「サンデイ、マンデイ、チューズデイ、ウェンズデイ、あ、サーズデイ、だ。」と答えてくれます。ヒットした曲の歌詞の途中の言葉を、ランダムに思い出すことは難しくとも、一旦、メロディーが流れ出すと詞がふっと口をついて出てきて、思い出せなかった部分でも歌えたりします。

 こと、もの、の体験の記憶がそのように脳に格納されているのなら、おそらく頭の中に降って湧いたアイデアやもっと複雑なイメージも、そういう脳内データのsequenceを糸とした織物とかタペストリー、あるいはもっと立体感のある「像 vision」としてに構築されているのではないかと思われます。

■言葉による、像(image)の次元低下
 私などは、そういうアイデア、image をなんとか保存しておきたいと、このブログに書き置きしたりしているのですが、事の性質上、下記のような困難が発生します。

頭の中は立体的な世界になっているらしい。あちらにもこちらにもたくさんのことが同時に自己主張している。収拾すべからざる状態という感じはそこから生じるのであろう。
 書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことできない。「AとBとは同時に存在する。」と考えたとしても、AとBとを同時に表現することは不可能で、かならず、どちらかを先に、他をあとにしないではいられない。
 裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。
外山滋比古「とにかく書いてみる」『思考の整理学』1986年ちくま文庫、p.136より

 そうなのです。脳内の vision は三次元なのに、筆者の文章は、蚕が吐き出す絹糸状の、一本の sequential な二次元の文字列に過ぎないのです。従いまして、読者は、sequential に並んでいる文字列から、再び、自らの脳内に vision を構築する必要が生じます。

 執筆者が脳内の立体的 vision をほぐして、蚕の絹糸にするのがなかなか困難なように、読者がその絹糸を(可能であれば)執筆者の意図に沿って、脳内に再構築することも、なかなか難事だろうと察せられます。

■文字の一列縦隊
 というのも、読者は、その文章を初見の際、言葉の一列縦隊を、真正面に立って見据えることになります。読者の眼に飛び込んてくるのは、一列に縦隊を組んで向かってくる一人一人の顔や人物のフォルム(姿、形)です。それがどういう行列だったのかは、最後の一人を見終わったとき辛うじて判明するからです。

 ある人物の脳内の vision を、他者の脳内に文字列を媒介として再構築することの困難さを考えれば、そのvision が壮大であればあるだけ、その像が精妙であればあるほど、初見で他者の思想、アイデアを了解することは難しい。だから、何度も読み直すことになる。言葉の一列縦隊の前部を読み直し、中間を読み直し、後部を読み直す。そうやってようやく執筆者の vision や意図をある程度、了解できるようになります。

 一方執筆者は、読者の負担を考えて、読者が言葉の一列縦隊をsequentialに読んだとき、なんとか腑に落ちるように意識してスムーズに配列しなければならなくなります。ゴタゴタ分かりにくい文章を自分で書いておいて、「あとは読者の責任だ。」とうそぶくことは、かえって執筆者の頭の中身を疑われることになりかねません。

 以上のことは、文章というものは、執筆者に相当の文章上のスキルやテクニックを要求するものであり、読者には、思いのほか忍耐力を求めざるを得ないものであることを意味します。

■漢字の正効果、負効果
 ただ一つ日本人にとってのアドバンテージは、日本語の文章が漢字仮名混じりであることです。漢字はAlphabetのような表音文字ではなく、表意文字、いわば「絵」=「画像データ」のようなものです。だから、読者に、漢字を通じて、初見の際でも、ある程度、その文章のコンテンツを予想(予断)することを可能とさせます。

 漢字は、その母国である中国大陸では、10数億人のリテラシーを向上させるため、表音文字化してしまいました。一方、朝鮮半島では15世紀以降独自の表音文字体系を構築します。あまり単純化した話はしたくないのですが、おそらく近現代における、日本人の自然科学、工学上のパフォーマンスの、大陸、半島に対する相対的な高さは、日本語の漢字仮名交じり文による理系文書の作成と関連が深いと考えてもよいかと思います。

 理系分野では蘭学の遺産もあり、欧文による教科書から、日本文による教科書への切り替え(同時にお雇い外国人教師から日本人教師への切り替え)が明治前期には終了しています。逆に、人文、社会科学系においては、漢語の素晴らしい造語力が、むしろ仇になり、英語系、ドイツ語系、フランス語系と、同一(あるいは同系)のテクニカルタームが学統ごとに別々に漢語化され、むしろ抽象概念の混乱を引き起こしていたこともかなりあった(現在でもある?)のではないか、と思われます。理系文書においてもそのような混乱は当然、発生し得ますが、その場合、その概念の指し示すobjectが自然物を媒介にして相互調整され、意味的干渉よりも、意味的収束化が進み概念が安定化して、早期に理系文書のテキスト化が進んだと思われます。

|

« ライプニッツからマンデヴィルへ/ From Leibniz to Mandeville | トップページ | 三島由紀夫が誘(いざな)う、小説の楽しみ方 »

言葉」カテゴリの記事

知識理論」カテゴリの記事

科学哲学/科学史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 脳内の像の言葉を通じた次元低下とその復元 Reducing dimension of the image in the brain by words and its restoring:

« ライプニッツからマンデヴィルへ/ From Leibniz to Mandeville | トップページ | 三島由紀夫が誘(いざな)う、小説の楽しみ方 »