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2018年7月 5日 (木)

「物質主義」から「肉体主義」へ From materialism to physicalism

 哺乳動物の外界認知のかなり大きな部分は、眼からくる視覚情報が占めます。なぜなら、風に乗ってくる匂いや空気の振動で伝わる音に比べて、光の伝達速度は瞬間だからです。

 そのうえ人間が外界で行動する際の、自己ナビゲーションを主に司るのは眼です。目隠しをして食事をするのはかなり難しい。それは、手と食器の位置、口と箸の位置関係の誤差を連続的に、眼からの情報が修正しているからです。眼が対物認識のためよりも、対自認識のためにあることを明らかにしたのは、J.J.ギブソンのアフォーダンス理論(J.J.Gibson, the theory of affordance)でした。

 また、四つ足の動物では目の位置は体高とほぼ同じですが、二足歩行のひとの眼窩は頭部にあり、身体の中で突出した高さにあります。

 生物としての人間に、これだけ圧倒的な重要性を持つ眼とその位置が、ひとの思考に影響を与えないはずがありません。

 大人が街で見かける見知らぬ子どもを警戒心なしに見たり、赤ちゃんを「かわいい」と感じたりできるのは、見下ろすことができ、「小さい」と認識できるからです。「小さい」ものを「かわいい」と認識してしまうのは、自己への危害可能性がゼロだからでしょう。litte や petit には「かわいい」か、小ばかにする(one little Indian♬)ニュアンスがついてまわります。

 文学に造詣の深い友人に、安部公房の「憐れみの奥には殺意が潜んでいる」と言う言葉を教えてもらいましたが、これはいざとなれば「自分はいつでも相手を殺すことが可能な相対位置にいる」という、生物としての(本能的な)アドバンテージ計算のことなのでしょう。ひとは己より巨大な肉体に対して、警戒心か恐怖しか感じないが、矮小な肉体に対しては、安心感と憐憫・軽侮を感じるものだと思います。少なくとも私はそうです。白人がアジア人に優越感をまず感じてしまうのも、生物としてやむを得ない面(身体認識)もあります。

※下記参照(出典: 
社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune、図録▽平均身長の国際比較、より)

 上記のように、白人集団とアジア諸集団に有意な体格差が存在するなら、この異質な二つの集団が出会ったとき、白人集団に無意識の優越感が芽生えてしまうのも、無理もないというべきだと思います。

 それを思うと、巨人国や小人国が登場する子ども向けファンタジーと見なされやすい、ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)ですが、矮小で弱い、人間という動物の、免れがたい身体的認識論としても一考の価値があります。

※追記
中国史家宮崎市定が、
「日本の家具は概して高さが低く、これに従って他の調度品もまたそれに応じた高さに作られるのである。硯一つととって見ても、高い机の上におく中国の硯はせいが高くどっしりしているのに反し、低い机の上におく日本の硯は、更に平ったい箱の中にしまわれるように出来ている。しかし直接に畳の上におく酒徳利は、中国の酒壺よりもせいが高い。坐ったときの目の高さが床からどの位の高さにあるかということは、生活必需品の形式に微妙なニュアンスを与えるものである。」「東洋史の上の日本」1958、古代大和朝廷 (筑摩書房)所収、P.227(現在は、ちくま学芸文庫)
と述べていることを思い出しました。

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