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2018年7月18日 (水)

神の「影」 (The Shadow of God)

 キリスト教における、「神」vs.「ひと」、「ひと」vs.「ひと」の関係性を考えます。

 「神」vs.「ひと」には、乗り越え難いカテゴリーの「異なり」があり、「ひと」vs.「ひと」にも「異なり」があります。しかし、後者は「神」vs.「ひと」に比べれば、無きに等しいもの。したがいまして、「神」vs.「ひと」の間に存在するのは、絶対的関係性。「ひと」vs.「ひと」は、所詮、相対的関係性。

 そこで、昔からの疑念なんですが、「神」vs.「ひと」において、乗り越え難い「異なり」があるのだとしたら、そもそも、「ひと」は「神」を認識できるのでしょうか。

 言うなれば、人を二次元の存在としたら、神は三次元の存在。二次元の存在者には、位置、長さ、面積があり、その三点なら認識できる。しかし、空間(体積)は認識できません。二次元存在者に認識可能なのは「面」までです。

 すると、二次元存在者である人が、これが「神」かもしれないと思っても、それは、「神」が光に照らされて二次元平面に落とした「影」にすぎない。そして、三次元存在者の影は、光の当たり具合でいくらでも、二次元平面への投影の形を変えます。

 上記の意味で、二次元存在者である「ひと」は、いつまでたっても三次元の「神」を知ることができない。むしろ、できなくて当りまえです。それこそが根本的な「異なり」ですし、ある存在者の認識能力の限界は、その存在者の存在様式に規定されますから。

 もし、「宇宙」やら「世界」を創り出した創造者がいたとしたら、それは、creator が真っ白い canvas に描いた一幅の creature に過ぎない。あるいは、こどもが画用紙に残すいたずら書き、のようなもの。したがいまして、それは詮無い、人のもがきのように思えます。

 私の思考は、堂々巡りののち、たいてい、

被造物が造物主を「思う」ことは存在として禁止されている、

に帰着してしまいます。西欧人は1500年以上も、なんと無駄なことにエネルギーを費やしているのだろうか、と。

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