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2018年9月 3日 (月)

憎しみについて

 憎しみは普通、他者に向けられます。

 一つは反作用として。

 身体に危害を加えられる、とします。例えば、ぶたれる。殴られる。蹴とばされる。足を踏まれる。などなどに対して、痛み、驚き、怒り、憎しみ、恨みが生じます。自分に原因や理由があろうが無かろうが、他者から傷つけられたら、まずそういう感情が先立ちます。

 これは、対象が無生物でも変わりません。冬の朝、家の中でトイレへ行こうなどとしている時に、足の小指あたりをイスの脚部にぶつけたとします。猛烈な痛みの後、腹が立ちまぎれに、そのイスを蹴とばしたり(更に自分が痛む場合もある)、罵(ののし)ったりします。相手がイスなのに。自分が勝手に足をぶつけただけなのに。

 この反作用は、身体的なものに対するだけでなく、自分の心に加えられたものでも同様です。叱られる。侮辱される。罵倒される。恥をかかされる。自己と他者だけでなく、第三者がいる面前で浴びせられればなおさらです。当方の原因や理由の有無とは関係がありません。これは、身体的な打撃と異なり、他者が発した言葉、行為に対して、自己がそう感じたり、受け取ったりすれば、他者の意図、感情とは関係なく生じてしまいます。ここまでは、person to person で、他者から自己に向けられた言動への reaction として生じます。しかし、別の契機もあります。

 二つ目は、他者への羨望、妬みの裏返しとして生じる憎しみです。

 ひとは、己の持たないもの、持てないもの、持ってはいけないもの、を他者が持っていたり、己がしないこと、できないこと、してはならないこと、を他者が悠々と行っていたりすると、その他者を羨み、羨望し、妬み、嫉妬します。それは、自己を悲しんだり、哀れんだり(自己憐憫)や、自分に怒り、憎しみを向けたり(自己嫌悪、自己憎悪)して一旦は鎮静化に向かいますが、ひとはそれほど長くは自分を哀れみ続けたり、憎み続けたりできません。不毛な行為なので疲れてしまいます。すると、その矛先は他者へと向けられます。自分で勝手に羨んだり、妬ましいだけなのに、自分への苛立ちを他者へ恨み、怒り、憎しみとして転化、投影します。これがひとの新たなる行動へのバネになり、自己を乗り越える行動や努力の契機になると素晴らしいのですが、そうは問屋が卸さず、往々にしてドス黒い情念の鬼火として、ぶすぶすとくすぶり続けることがまま、あります。憎しみの感情はそう簡単に立ち消えたりしません。 

 芥川龍之介の『羅生門』で、人生の行き場に困り、窮まった下人が、羅生門で死体から髪の毛を漁る老婆を見た瞬間、老婆に対する怒りが奔流となり、髪の毛も太る恐怖を掻き消す場面があります。作者は、下人の(自分の思惑を棚に上げた)正義感からと記述していますが、どうも納得できません。これは下人の老婆に対する羨望、嫉妬に基づくその裏返しの憎悪ではなかろうか、と思います。下人は先ほどまで、雨宿りしていたこの羅生門の下で、「悪」をなすべきか、なさざるべきかと逡巡し、ウジウジ悩んでいました。ところが、自分より下賤なはずの老婆が、より「悪」であるはずの、死人から盗むことを躊躇なく実行していました。それを目の当たりにして、下人は一瞬のうちに嫉妬し憎んだのではないか。自分がなせないことを、自分より劣っている老婆が迷いなくなし得ていることに。もし、下人が老婆に同調、同情し、共感したなら、一緒になって死人たちからの追剥ぎをしたでしょう。そうではなく、下人は意外な行動に出ます。むしろ、か弱い老婆から、清々しいまでに追剥ぎをします。死人から盗むより、生きている人間から盗むことが、下人のとってより上等だったからに外なりません。老婆の行いから、「悪」をなす人生の確信と、「悪」を実行することの勇気を同時に得た下人は、こうして颯爽と雨の都に消えていく訳です。

 誠に「理性は情念の奴隷である。」とはよく言ったものだと納得します。

Reason is, and ought only to be the slave of the passions, and can never pretend to any other office than to serve and obey them.
A Treatise of Human Nature, by David Hume
Book II. Of the Passions Sect.III. Of the Influencing Motives of the Will

理知(理性)は情念の奴隷であり、且つただ奴隷であるべきである。換言すれば、情緒に奉仕し服従する以上の何らかの役目を敢えて僭望することは決してできないのである。
ヒューム『人性論(三)』岩波文庫1951年大槻春彦訳、p.205

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