山川方夫「夏の葬列」1962年
「ヒッチコックマガジン」昭和三十七年八月初出
夏の葬列
山川方夫
海岸の小さな町の駅に降りて、彼は、しばらくはもの珍しげに辺りを眺めていた。駅前の風景はすっかり変わっていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、硬く舗装されてしまっている。はだしのまま、砂利の多いこの道を駆けて通学させられた小学生の頃の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三か月ほど住んでいたのだった。―あれ以来、俺は一度もこの町を訪ねたことがない。その自分が、今は大学を出、就職をし、一人前の出張帰りのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。
東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は十分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店でたばこを買い、それに火をつけると、ゆっくりと歩きだした。
夏の真昼だった。小さな町の家並みはすぐに尽きて、昔のままの踏切を越えると、線路に沿い、両側にやや起伏のある畑地が広がる。彼は目を細めながら歩いた。遠くに、かすかに海の音がしていた。
なだらかな小丘の裾、ひょろ長い一本の松に見覚えのある丘の裾を回りかけて、突然、彼は化石したように足を止めた。真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波打たせた広い芋畑の向こうに、一列になって、喪服を着た人々の小さな葬列が動いている。
一瞬、彼は十数年の歳月が宙に消えて、自分が再びあの時の中にいる錯覚にとらえられた。……呆然と口を開けて、彼は、しばらくは呼吸をすることを忘れていた。
濃緑の葉を重ねた一面の広い芋畑の向こうに、一列になった小さな人影が動いていた。線路脇の道に立って、彼は、真っ白なワンピースを着た同じ疎開児童のヒロ子さんと、並んでそれを見ていた。
この海岸の町の小学校(当時は国民学校といったが)では、東京から来た子どもは、彼とヒロ子さんの二人きりだった。二年上級の五年生で、勉強もよくでき、大柄なヒロ子さんは、いつも彼をかばってくれ、弱虫の彼を離れなかった。
よく晴れた昼近くで、その日も、二人きりで海岸で遊んできた帰りだった。
行列は、ひどくのろのろとしていた。先頭の人は、大昔の人のような白い着物に黒っぽい長い帽子をかぶり、顔の前で何かを振りながら歩いている。続いて、竹筒のようなものを持った若い男。そして、四角く細長い箱を担いだ四人の男たちと、その横をうつむいたまま歩いてくる黒い和服の女。……
「お葬式だわ。」
と、ヒロ子さんが言った。彼は、囗をとがらせて答えた。
「変なの。東京じゃあんなことしないよ。」
「でも、こっちじゃああするのよ。」
ヒロ子さんは、姉さんぶって教えた。
「そしてね。子どもが行くと、おまんじゅうをくれるの。お母さんがそう言ったわ。」
「おまんじゅう? 本当のアンコの?」
「そうよ。ものすごく甘いの。そして、とっても大きくって、赤ちゃんの頭ぐらいあるんだって。」
彼は唾をのんだ。
「ね。……僕らにも、くれると思う?」
「そうね。」ヒロ子さんは、真面目な顔をして首をかしげた。
「くれる、かもしれない。」
「ほんと?」
「行ってみようか? じゃあ。」
「よし。」と彼は叫んだ。
「競走だよ!」
芋畑は、真っ青な波を重ねた海みたいだった。彼はその中に躍り込んだ。近道をしてやるつもりだった。……ヒロ子さんは、あぜ道を大回りしている。僕のほうが早いに決まっている。もし早い者順でヒロ子さんの分がなくなっちゃったら、半分分けてやってもいい。芋のつるが足にからむ柔らかい緑の海の中を、彼は、手を振り回しながら夢中で駆け続けた。
正面の丘の陰から、大きな石が飛び出したような気がしたのはその途中でだった。石はこちらを向き、急速な爆音と一緒に、不意に、何かを引きはがすような激しい連続音が聞こえた。叫び声があがった。「カンサイキだあ。」と、その声はどなった。
艦載機だ。彼は恐怖に喉がつまり、とたんに芋畑の中に倒れ込んだ。炸裂音が空中にすさまじい響きをたてて頭上を過ぎ、女の泣きわめく声が聞こえた。ヒロ子さんじゃない、と彼は思った。あれは、もっと大人の女の人の声だ。
「二機だ、隠れろ! またやって来るぞう。」奇妙に間のびしたその声の間に、別の男の声が叫んだ。「おーい、引っ込んでろその女の子、だめ、走っちゃだめ! 白い服は絶好の目標になるんだ、……おい!」
白い服―ヒロ子さんだ。きっと、ヒロ子さんは撃たれて死んじゃうんだ。
その時第二撃が来た。男が絶叫した。
彼は、動くことができなかった。ほっぺたを畑の土に押しつけ、目をつぶって、懸命に呼吸を殺していた。頭がしびれているみたいで、でも、無意識のうちに体を覆おうとするみたいに、手で必死に芋の葉を引っぱり続けていた。辺りが急にしーんとして、旋回する小型機の爆音だけが不気味に続いていた。
突然、視野に大きく白い物が入ってきて、柔らかい重い物が彼を押さえつけた。
「さ、早く逃げるの。一緒に、さ、早く。だいじょぶ?」
目をつり上げ、別人のような真っ青なヒロ子さんが、熱い呼吸で言った。彼は、囗がきけなかった。全身が硬直して、目にはヒロ子さんの服の白さだけが鮮やかに映っていた。
「今のうちに、逃げるの、……何してるの? さ、早く!」
ヒロ子さんは、怒ったような怖い顔をしていた。ああ、僕はヒロ子さんと一緒に殺されちゃう。僕は死んじゃうんだ、と彼は思った。声の出たのは、そのとたんだった。不意に、彼は狂ったような声で叫んだ。
「よせ! 向こうへ行け! 目だっちゃうじやないかよ!」
「助けに来たのよ!」ヒロ子さんもどなった。「早く、道の防空壕に……。」
「嫌だったら! ヒロ子さんとなんて、一緒に行くの嫌だよ!」夢中で、彼は全身の力でヒロ子さんを突き飛ばした。
「……向こうへ行け!」
悲鳴を、彼は聞かなかった。その時強烈な衝撃と轟音が地べたをたたきつけて、芋の葉が空に舞い上がった。辺りに砂ぼこりのような幕が立って、彼は、彼の手であおむけに突き飛ばされたヒロ子さんがまるでゴムまりのように弾んで空中に浮くのを見た。
葬列は、芋畑の間を縫って進んでいた。それはあまりにも記憶の中のあの日の光景に似ていた。これは、ただの偶然なのだろうか。
真夏の太陽がじかに首筋に照りつけ、めまいに似たものを覚えながら、彼は、ふと、自分には夏以外の季節がなかったような気がしていた。……それも、助けに来てくれた少女を、わざわざ銃撃の下に突き飛ばしたあの夏、殺人を犯した、戦時中の、あのただ一つの夏の季節だけが、いまだに自分を取り巻き続けているような気がしていた。
彼女は重傷だった。下半身を真っ赤に染めたヒロ子さんはもはや意識がなく、男たちが即席の担架で彼女の家へ運んだ。そして、彼は彼女のその後を聞かずにこの町を去った。あの翌日、戦争は終わったのだ。
芋の葉を、白く裏返して風が渡っていく。葬列は彼の方に向かってきた。中央に、写真の置かれているそまつな柩がある。写真の顔は女だ。それもまだ若い女のように見える。……不意に、ある予感が彼をとらえた。彼は歩き始めた。
彼は、片足をあぜ道の土に載せて立ち止まった。あまり人数の多くはない葬式の人の列が、ゆっくりとその彼の前を過ぎる。彼は少し頭を下げ、しかし目は熱心に柩の上の写真を見つめていた。もし、あの時死んでいなかったら、彼女はたしか二十八か、九だ。
突然、彼は奇妙な喜びで胸がしぼられるような気がした。その写真には、ありありと昔の彼女の面影が残っている。それは、三十歳近くなったヒロ子さんの写真だった。
まちがいはなかった。彼は、自分が叫び出さなかったのが、むしろ不思議なくらいだった。
―俺は、人殺しではなかったのだ。
彼は、胸にわき上がるものを、懸命に冷静に抑えつけながら思った。たとえなんで死んだにせよ、とにかくこの十数年間を生き続けたのなら、もはや彼女の死は俺の責任とはいえない。少なくとも、俺に直接の責任がないのは確かなのだ。
「……この人、足が悪かった?」
彼は、群れながら列のあとに続く子どもたちの一人に尋ねた。あの時、彼女は太腿をやられたのだ、と思い返しながら。
「ううん。悪くなかったよ。体は全然じょうぶだったよ。」
一人が、首を振って答えた。
では、治ったのだ! 俺は全くの無罪なのだ!
彼は、長い呼吸を吐いた。苦笑が頬に上ってきた。俺の殺人は、幻影にすぎなかった。あれからの年月、重苦しく俺を取り巻き続けていた一つの夏の記憶、それは俺の妄想、俺の悪夢でしかなかったのだ。
葬列は確実に一人の人間の死を意味していた。それを前に、いささか彼は不謹慎だったかもしれない。しかし十数年間もの悪夢から解き放たれ、彼は、青空のような一つの幸福に化してしまっていた。……もしかしたら、その有頂天さが、彼にそんなよけいな質問を口に出させたのかもしれない。
「なんの病気で死んだの? この人。」
うきうきした、むしろ軽薄な口調で彼は尋ねた。
「このおばさんねえ、気がちがっちゃってたんだよ。」
ませた目をした男の子が答えた。
「一昨日ねえ、川に飛び込んで自殺しちゃったのさ。」
「へえ。失恋でもしたの?」
「バカだなあおじさん。」運動靴の子どもたちは、口々にさもおかしそうに笑った。
「だってさ、このおばさん、もうおばあさんだったんだよ。」
「おばあさん? どうして。あの写真だったら、せいぜい三十くらいじゃないか。」
「ああ、あの写真か。……あれねえ、うんと昔のしかなかったんだってよ。」
はなを垂らした子があとを言った。
「だってさ、あのおばさん、なにしろ戦争でね、一人きりの女の子がこの畑で機銃で撃たれて死んじゃってね、それからずっと気がちがっちゃってたんだもんさ。」
葬列は、松の木の立つ丘へと登り始めていた。遠くなったその葬列との距離を縮めようというのか、子どもたちは芋畑の中に躍り込むと、喚声をあげながら駆け始めた。
立ち止まったまま、彼は写真を載せた柩が軽く左右に揺れ、彼女の母の葬列が丘を登っていくのを見ていた。一つの夏と一緒に、その柩の抱きしめている沈黙。彼は、今はその二つになった沈黙、二つの死が、もはや自分の中で永遠に続くだろうこと、永遠に続くほかはないことがわかっていた。彼は、葬列のあとは追わなかった。追う必要がなかった。この二つの死は、結局、俺の中に埋葬されるほかはないのだ。
―でも、なんという皮肉だろう、と彼は口の中で言った。あれから、俺はこの傷に触リたくない一心で海岸のこの町を避け続けてきたというのに。そうして今日、せっかく十数年後のこの町、現在のあの芋畑を眺めて、はっきりと敗戦の夏のあの記憶を自分の現在から追放し、過去の中に封印してしまって、自分の身を軽くするためにだけ俺はこの町に降リてみたというのに。……全く、なんという偶然の皮肉だろう。
やがて、彼はゆっくりと駅の方角に足を向けた。風が騒ぎ、芋の葉のにおいがする。よく晴れた空が青く、太陽はあい変わらずまぶしかった。海の音が耳に戻ってくる。汽車が、単調な車輪の響きをたて、線路を走っていく。彼は、ふと、今とは違う時間、たぶん未来の中の別な夏に、自分はまた今と同じ風景を眺め、今と同じ音を聞くのだろうという気がした。そして時を隔て、俺はきっと自分の中の夏の幾つかの瞬間を、一つの痛みとしてよみがえらすのだろう……。
思いながら、彼はアーケードの下の道を歩いていた。もはや逃げ場所はないのだという意識が、彼の足どりをひどく確実なものにしていた。
「ヒッチコックマガジン」昭和三十七年八月
※PDF(縦書、二段組)は下記。
「yamakawamasao_natusnosoretsu.pdf」をダウンロード
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