« 日本人と論理(1) | トップページ | 和辻哲郎のデジタル復刻第一号 »

2019年1月 3日 (木)

デカルト『方法序説』1637年、を読む

Frans_hals__portret_van_ren_desc_17

 ようやく読み終わりました。デカルト『方法序説』1637年、レイデン(谷川多佳子訳、岩波文庫版1997年)版で、本文99頁、訳者註23頁、訳者解説9頁です。その三つを 合わせても131頁。とても薄い。いつでも読める、と思うのでしょうか。未読なのに、既読感だけあるため、食指が動かない。これが《古典》と言うものなのかも知れません。
 右は教科書によく載る、フランス・ハルス作のデカルトの肖像画です。享年54歳のデカルト晩年の姿と推定されています。

 

■0.書誌情報Descartes_discours_de_la_methode
 この本の正確なフルタイトルは以下となっています。初版タイトル頁(画像)をWikipedia様から拝借してきました。

Discours de la methode pour bien conduire sa raison, et chercher la verite dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Meteores et la Geometrie, qui sont des essais de cette methode.
(理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学)、訳者解説より

 原文全体で500頁を超える科学論文集(屈折光学、気象学、幾何学の3編)の冒頭の序文78頁が本書です。後世、独立して読まれ『方法序説』として人口に膾炙するようになりました。
 出版年は1637年。出版地はレイデンLeiden(オランダ)。出版者は、ヤン・マイレ書店。無署名です。

■1.書誌情報(時代)
 1637年(17世紀前半)はどういう年でしょうか。
 デカルトの母国フランスは、1635年に第ゼロ次世界大戦ともいうべき三十年戦争(ドイツが主戦場)に、カトリック大国として参戦し、1638年には5歳のルイ14世(後の太陽王)が即位します。イングランドの地は、5年後の1642年にピューリタン革命が勃発して足掛け8年間KingdomではなくCommonwealthでした。北部ネーデルランド(⇔オランダ、カルヴァン派)が共和国として宗主国スペイン(カトリック)との独立戦争の真っ最中。北アメリカでは、1620年にメイフラワー号に乗ったピルグリムファーザーズがニューイングランドのプリマスに上陸しています。1638年には牧師養成のためハーバード大学が設立されます。ドイツは欧州中の王国(傭兵)軍が乗り込み新旧キリスト教が入り乱れての三十年戦争で焦土と化しつつありました。
 一方、ムガル帝国では壮麗なタージ=マハルが造営(1632~53年)されています。満州族によって建国された後金が国号を清と改称(1636年)し、1644年北京に入城します。明末の1637年、産業技術書である『天工開物』が出版されました。日本では島原の乱が1637~38年、1638年ポルトガル船の来航が禁止、1641年平戸のオランダ商館員が出島に移送されて徳川公儀による管理貿易体制(「鎖国」体制)が完成しています。

■2.書誌情報(出版地1)
 出版地である学術都市レイデンはオランダ(というよりは北部ネーデルラント共和国)にあり、17世紀オランダは1625年~75年はヘゲモニー国家でした(ウォーラーステイン)。オランダでは「黄金時代」と呼ばれています。西欧の最先端経済を有していました。デカルトが、静謐で自由な研究環境を求めて1628年異国であるオランダに移住してから、49年の秋,スウェーデンのクリスティーナ女王に招かれてストックホルムに向かうまで20年間もオランダ住まいだったのは十分な理由があります。ウォーラーステインから引用します。

オランダは、「哲学者にとっての天国であった」。(中略)デカルトは、フランスではえられなかった落着きと安定をオランダに見いだした。スピノザは、破門されてセファルディ(スペイン)系ユダヤ人のヨーデンブラー通りから追い立てられ、オランダ人市民の住む、より友好的な地域に引っ越した。ロックもまた、ジェイムズニ世の暴虐を逃れて、オランダ人がイギリスの王位についた、より幸せな時代まで、この地に避難場所を来めた。(中略)オランダは間違いもなく、フランス人ユグノーにとっての亡命地であった。しかし、オランダ人はきわめてリベラルで、ユグノーをも受け入れたが、ヤンセニストをも受け入れたのである。同様に、ピューリタンと王党派とウィッグのいずれをも、受け入れたのである。それどころか、ついにはポーランドのソッツィーニ派をさえ、受けいれてしまったのである。いわば、それらはすべて、「禁止は最少に、導入はどこからでも」というオランダ人の商業上の原則のおかげを蒙ったのである
(I・ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム 1600~1750―重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集』の凝集』名古屋大学出版会、一九九三年、六九頁)

■3.書誌情報(出版地2)
 本書の出版地レイデン Leiden 。ドイツ語、英語読みはライデンです。
 この都市の発展は毛織物工業の成立した14世紀以降で、とくにオランダ独立戦争の過程でフランドルやブラバント地方といった、南部ネーデルラント〔Neder 低地 landen 国々〕から織物職人が難民として市内に大量に流入し、新しい毛織物工業を伝えたのがきっかけです。おかげで、16世紀末から17世紀にかけて再び毛織物工業がめざましく発展し、17世紀には西ヨーロッパ最大の毛織物工業都市に成長しました。そのため、人口はアムステルダムに次いで約10万人に達しました。21世紀現在の人口も12万人弱ですから、その巨大さが想像されますし、デカルトが欲した静謐で自由(=一人になれ、かつ生活がコンビニエント)な研究環境がそろっていたことが了解できます。
 オランダ独立戦争中の1573~74年にスペイン軍に包囲されましたが、堤防を切断し洪水を引き起こして撃退しました。翌75年オラニエ公ウィレムがこの勝利を記念してオランダ最初の大学であるライデン大学をこの地に創設します。しかもその直後にグロティウスらの学者を輩出し、初期近代ヨーロッパの学術的中心地の一つになります。人文,天文学,解剖学,植物学,物理学,化学などの部門を持ち、カルバン派神学の中心として多くの外国人学生を引きつけました。デカルトがオランダに強く惹かれたもう一つの点でしょう。現大学にはオランダで唯一の日本学・韓国学センターが置かれていて、大学付属の薬用植物園も1587年の創立と古く,ここにはシーボルトが日本で採集した植物もあり、日本と因縁浅からぬ大学都市です。また、レンブラント、ヤン・ステーンら著名な画家の生地でもあります。先の、ウォーラーステインからの引用にもあるように、宗教上の亡命者に寛容で、北アメリカへ移住する直前の10年間、ピルグリム・ファーザーズはここに住み、1620年このレイデンからイングランドのサウサンプトン経由(新たな参加者を募集)で、北米・東海岸のプリマスに向かいました。

■内容1
 中身は、六部に分かれます。デカルトの言葉によると、

第一部 学問にかんするさまざまな考察
第二部 探求した方法の主たる規則
第三部 この方法からひきだした道徳上の規則
第四部 神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠、つまり著者の形而上学の基礎
第五部 自然学の諸問題の秩序、とくに心臓の運動や医学に属する他のいくつかの難問解明とわれわれの魂と動物の魂との差異
第六部 自然の探究においてさらに先に進むために何が必要か、また本書執筆の経緯

ということになります。

■内容2
 有名どころの章句の所在を二箇所あげます。まず例の「コギト」です。引用は全て岩波文庫版より。

第四部 pp.45-46
ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が創造させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論をまちがえて誤謬推理(誤った推理)をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべて偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。 

  次に、「自然の主人」の章句です。

第六部 p.82
わたしは、これらを隠しておくことは、力の及ぶかぎり万人の一般的幸福をはかるべしという掟に照らして大きな罪を犯すことになる、と思った。なぜなら、これらの知見は次のことをわたしに理解させたから。すなわち、われわれが人生にきわめて有用な知識に到達することが可能あり、学校で教えているあの思弁哲学の代わりに、実践的な哲学を見いだすことができ、この実践的な哲学によって、火、水、空気、星、天空その他われわれをとりまくすべての物体の力や作用を、職人のさまざまな技能を知るようにはっきりと知って、同じようにしてそれらの物体をそれぞれ適切な用途にもちいることができ、こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。

■内容3
 私が気になったのは、デカルトの生き方の方法ではなく、方法的生き方です。これは、世俗のただ中に、修道士的生活態度を堅持する、という禁欲的プロテスタンティズムのエートスそのものです。プロテスタントの最大教派の一つである、メソディストMethodistは、〈聖書に示されている方法methodに従って生きる〉ため、そう呼ばれました。終生カトリックから離れなかったデカルトですが、その堅信的な〈方法的生き方〉は、禁欲的プロテスタンティズムのエートスとなんら変わるところがありません。それはまた、Max Weber の言う、「行動的禁欲 aktive Askese」そっくりです。

第三部 pp.42-43
そのうえ、わたしは自分に定めた方法を使いこなす練習をつづけていった。というのも、自分の思想すべてをこの方法の規則に従って導くよう全体にわたり努めたほかに、ときどき何時間かをさいて、とくに数学の難しい問題、さらには、数学の問題にほぼ似た形に直すことのできた他のいくつかの問題に、この方法を実際に適用した。それは、これら数学以外の問題を、わたしがあまり堅固でないと思っていた他の諸学問の原理すべてから切り離すことによっておこなった。さてこうして、隠やかで邪念のない生活をするほか何の仕事もなく、快楽を悪徳から分けようと努め.また退屈せずに余暇をすごすために品位あるあらゆる気晴らしにふける人たちと、見かけは変わりのない生活をしながらも、わたしは自分の計画を追究しつづけひたすら真理の認識に前進をつづけた.おそらく、ただ本を読んだり、学識者と付き合うだけだったよりも、はるかに先に進んだのである。

 もう一点、気づいた事は、デカルトは典型的な都市型知識人だということです。生活を便利さを享受しつつ、個としての自由、内面的自由を維持するには、大都会という隠れ家がぴったりな訳です。

第三部 p.44
そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地に隠れ住む決心をした。この国には、長く続いた戦争のおかげで、常備の軍隊は人びとが平和の果実をいっそう安心して享受できるためにだけ役立っている、と思えるような秩序ができている。ここでは、大勢の国民がひじょうに活動的で、他人の仕事に興味をもつより自分の仕事に気をくばっている。わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。

 続く(つもり)

|

« 日本人と論理(1) | トップページ | 和辻哲郎のデジタル復刻第一号 »

西洋」カテゴリの記事

書評・紹介」カテゴリの記事

思想史」カテゴリの記事

科学哲学/科学史」カテゴリの記事

古典(classic)」カテゴリの記事

René Descartes」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: デカルト『方法序説』1637年、を読む:

« 日本人と論理(1) | トップページ | 和辻哲郎のデジタル復刻第一号 »