樺山紘一編著『現代歴史学の名著 』1989年中公新書(後編②)完結
19.テイラー『第二次世界大戦の起源 』
20.フーコー『言葉と物 』
21.ヴェントゥーリ『啓蒙のユートピアと改革 』
18..ホブズボーム『反抗の原初形態 』評者:近藤和彦
Hobsbawm, Eric J. E. Social Bandits and Primitive Rebels, 1959
本書は多くの国語に訳され、歴史学、人類学(民族学)、他の人文・社会科学の研究者に刺激をあたえ、また世界中で読者をえている。たとえばフランス語版は1966年に翻訳出版されているが、その序文を寄せているのはほかならぬジャック・ル・ゴフである。イタリアの社会史家、カルロ・ギンズブルグも、若いときにこのホブズボームの議論によって自分の考えを広い文脈のなかに位置づけなおすことができ、励まされたと述懐している。
〔p.170-1〕
本書は序に続く八つの章で、南ヨーロッパの社会的匪賊、マフィア、ラザレッティ、アナキスト、シチリアのファッシ、都市の暴徒、そしてイギリスの労働者宗派としてのメソディズム、ヨーロッパ一般の秘密結社の儀礼を紹介し、論じている。おわりに「彼らじしんの声」という題の付録があって、十三項にわたって匪賊、農民、活動家の発言、誓約などが英訳、収録されている(ホブズボームじしんによるインタビューも含む)。残念ながら邦訳(註1)ではこの本論のうち四つの章と付録のすべてが省略されて、かわりに訳者独自の「聖者と山賊」論が付されている。だから本当に関心を持つ読者はこの邦訳を手がかりとして見たあとは、直接にホブズボームの英文を読んだ方が良い。原著で200頁あまりのペーパーバックだが、明快でまた反逆者たちの息吹を伝える英語は、読者の想像力とインスピレーションを刺激してやまないだろう。
〔p.171〕
右の八つのテーマを通じて明らかにされるのは、こういうことである。匪賊もマフィアもアナキストも秘密結社も、従来の近代化論や合理主義の観点からすると後向きの運動、愚かな心性のあらわれでしかない。近代政治のゲームのルールになじまない逸脱であった。だが、これが早熟な社会主義者、独創的な自由主義者ホブズボームにかかると、大きな変貌の時代の意味ある現象、民衆政治のひとつの形としてよみがえる。「原始的」「古風」というと歴史を超絶した博物館的存在のように受けとられるかもしれないが、それはちがう。十九世紀ヨーロッパは政治、経済、社会、あらゆる局面で大変貌をとげる。人と人のあいだの中世的な紐帯が崩壊した後「原始的反逆者たち」の集団は、独自のモラル、正義感によるそれなりに新しい結合や規範をもとめて試行錯誤したのだ。
〔p.171-2〕
(註1)評者による苦言は、文中の中公新書版のこと。完訳版が別訳として、社会思想社から、『素朴な反逆者たち』というタイトルで既に出版されている。上記のリンクは、その社会思想社版。
19.テイラー『第二次世界大戦の起源』 (講談社学術文庫)評者:北村暁夫
Taylor, Alan John Percivale The Origins of Second World War, 1961
『第二次世界大戦の起源』は、第一次と第二次の両世界大戦の歴史研究のあり方を比べることから話を説き起こす。テイラーによれば、第一次大戦に対する歴史家の関心は、もっぱらその起源に向けられ、戦争の経過にあまり注意が払われていない。これに対し、第二次大戦(ここでは主としてヨーロッパが問題とされている)に関しては、戦争の経過に関心が向けられているのに、その起源に歴史家は言及しない。なぜこのような全く逆の事態が生じたのであろうか。それは、第一次大戦ではドイツの戦争責任の有無という問題が大戦後のドイツの地位をめぐる国際問題に直結していたために、いやが応でも、歴史家が戦争の起源の探求に向かわざるを得なかったのに対し、第二次大戦では、戦後のドイツの地位という問題がそれほど大きな国際問題にならなかったのに加え、ヒトラーという、すべての戦争責任をおしつけられる存在があったために、歴史家は起源論を素通りできたからである。テイラーは、すでに第二次大戦も歴史的存在になったという認識のもとに、ヒトラーという「暗黒」にすべての悪の根源を求めるという研究の現状に飽き足らず、戦争の起源をたどる、と説くのである。
〔p.177-8〕
このような問題意識の上に、叙述は第一次大戦の終結から始まる。第二次大戦の起源を説くのに第一次大戦の終了時から始める ― このこと自体がテイラーの認識を如実に物語っている。テイラーにとって、ヴェルサイユ条約に代表される第一次大戦の戦後処理のまずさが第二次大戦の遠因であった。「ドイツ問題」は戦間期を通じて、ヨーロッパ諸国間の国際問題であり続けたのである。
〔p.178〕
・・・。テイラーはこうして、ヒトラーによって計画された戦争というテーゼを否定するのである。
〔p.179〕
・・・。まさに第二次大戦に至る道は、「英雄なき歴史であり、もしかしたら悪漢さえいない歴史」なのである。
〔p.180〕
こうしてテイラーは、従来の第二次大戦研究史に特徴的だったヒトラーおよびナチス・ドイツにあらゆる戦争責任を委ねてしまう議論から研究史を解放した。
〔p.180〕
このような歴史解釈に対する認識、方法論をもっていたテイラーが歴史を書くとき、その書き方はどうしても、分析的であるよりは叙述的になる。これまた彼の常套句に、「私は旧式の叙述家です」というのがあるが、これは言葉に贅を尽くした歴史叙述を行うテイラーの一側面をよく表しているし、本書刊行後に、「マコーレーの真の後継者」という評を彼が得たのも理解できよう。
〔p.181〕
いくつかの欠陥にもかかわらず、本書はその後の第二次大戦史研究に大きな足跡を残した。本書の最大の貢献は、「修正主義」と呼ばれる潮流に道を開いたことである。
〔p.182〕
テイラー以後の、第二次世界大戦史研究は、この「修正主義」の当否をめぐる議論を中心に展開された、といっても過言ではない。
〔p.183〕
20.フーコー『言葉と物』評者:松浦義弘
Foucault, Michel Les mots et les shoses, 1966
・・・フーコーの考古学は、史料という物にそくした徹底的な、唯物主義・実証主義である。『言葉と物』は、このような考古学的分析によって、十八世紀末から今日まで続く知の空間が、それ以前の古典主義時代の知の空間の存在様態とは異なることを示す。古典主義時代の知の空間は、無限に向けて展開する知の空間だったのであり、この表象の空間に入らない言語や系譜、生命や組織、労働や生産は、実在せず、従って文献学も言語学も、生物学も、経済学も存在しなかった。実在したのは、「一般文法」「博物学」「富の分析」だけだった。それらはそれぞれ「語根」「特徴」「貨幣」という、無限の表象の空間に入り得る要素を持ち、これらの要素が、それらの学知に科学性を保証していたからである。そこでは、人間もまた、無限の表象の空間のあいだにしか姿を見せなかった。だから、文献学・生物学・経済学が成立し、人間が出現するためにはそのような無限に向けて展開する表象の空間が破壊され、別の経験性の空間が出現しなければならない。こうして、十八世紀と十九世紀の境目に生じた断層・非連続性は、「科学的に真であると承認される言語表現の形成規則の習性」という別の事象の記号に過ぎない、ということが示される。
〔p.193-4〕
フーコーの歴史学へのインパクトについては、にわかには断じがたい。彼が1984年に急逝して、まだ日があさいということがある。ただ、これまでに明らかになっていることは、いくつかある。まず、1960年代以降の歴史学が狂気、病と医療、犯罪と刑罰、家族、性など、それまで無視されてきた領域を研究の主要な対象にするにいたったことは、フーコーのインパクトを抜きにしては考えられまい。 ・・・。だが何よりも重要なのは、フーコーが歴史家の作業そのものの再考をうながした点であろう。歴史家は、通例、みずからの研究対象を自明の前提として実証作業をおこない、みずからの作業の根拠を問わない。いわば、現在の歴史学には歴史認識論、歴史哲学が不在である。フーコーはこの歴史学のあり方を鋭く衝いた、歴史学の対象の自明性とそれをささえる歴史家の前提にかんして、彼はこうのべる。「歴史家たちが客観的に所与だとこれらの諸要素の『客観化』の歴史を書くこと(あえていえば、種々の客観性の客観化)、こうしたたぐいの循環こそ、わたしが訪ねて歩いてみたい道なのです。要するにこれは「もつれ」」であって、そこから抜け出るのは容易ではありません」。このようなフーコーの批判が、歴史学的知にどのような影響をもたらすかは、今後の問題である。だが、もう、フーコーは歴史家であったのか、と単純に問うことはできまい。それは、歴史学の自明性を前提にした問なのだから。
〔p.195-6〕
21.ヴェントゥーリ『啓蒙のユートピアと改革 ―1969年トレヴェリアン講義 』評者:奥田敬
Venturi, Franco Utopia e riforma nell'Illuminisimo, 1970
残念ながら、『改革の十八世紀』は、 ― 英訳が伝えられるものの ― 今のところはイタリア語でしか読むことができない。だが、ヴェントゥーリによって再現された十八世紀の壮大な思想の交響楽の梗概は、既に日本語で日本語で手にすることができる。本書『啓蒙のユートピアと改革 』がそれである。1970年にイタリア語版、翌71年に英語版が出版された本書は、1969年4月のケンブリッジ大学トレヴェリアン講座での連続講義をもとにした、邦訳でも200頁を僅かに超える程度の小冊子であるが、その内容はまさに同じ1969年から刊行を開始された『改革の十八世紀』の序曲というにふさわしく、やがて多様に変奏・展開される主題が、ここでは簡潔に力強く提示されている。
〔p.199-200〕
ではその主題とは何か。本書『啓蒙のユートピアと改革 』の序論で、ヴェントゥーリは自分の「関心の中心は啓蒙の展開に対する共和主義的伝統の衝撃という問題を提出しようとすることだ」と述べている。ここで注意を要するのは、ヴェントゥーリのいう「共和主義」が、特定の制度や体系的な教条を意味するものではないということである。この「序論」はヴェントゥーリが直截に自己の歴史学方法論を開陳した数少ない文章の一つであるが、なかでもエルンスト・カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』に代表される「啓蒙の哲学的解釈」―そこには「原初、始原、源泉に対するゲルマン的ノスタルジア」の危険が潜む―を批判しつつ、次のように宣言している箇所が注目される。
「明らかに、われわれのなすべきことは思想をその始原にまでにさかのぼって追求することではなく、十八世紀の歴史の中でその機能を検討することである。哲学者たちは源流にたどりつくまでは、上流を目指して押し進もうという誘惑にかられる。歴史家たちは、どのようにして川が、どのような障害や困難のなかで、流れをつくっていったかを語らなければならない。」
〔p.200〕
テーマは「自由」の問題である。それが彼の考える「共和主義的伝統」の核心でもある。しかし、ここで問われているのは抽象的・一般的な観念としての自由では決してなく、あくまでも具体的・個別的な情況のなかで、自覚した個人、ないしは、そうした個人の自発的結合集団によって生きられた経験としての自由であるとことに留意しなければならない。「啓蒙」とはかかる自覚の契機 ―「憚ることなく賢明であれ Sapere aude!」―にほかならない。
〔p.205〕
<生きられた経験としての自由>の歴史は、さしあたり(1)個々人における思想の形成(生産)の過程と、(2)その相互影響(流通)過程の重層として捉えることができよう。ヴェントゥーリにあっては、(1)は伝記的な細部の丹念な再構成として、(2)は思想の具体的な社会的存在形態(出版業、新聞・雑誌、アカデミー等々)の解明として、その方法を特徴づけている。そうしてこの二つの過程は、いわば<思想史への国際関係論的接近>の視覚から総合される。
〔p.205〕
このようにみてくると、ヴェントゥーリに対してしばしば向けられる批判、彼の方法は思想体系の内在的分析を欠く、もしくは意識的に禁欲しているがために、群小思想家は扱えても大思想家は論じることができない云々という評価にも再考の余地があるように感じられる。ヴェントゥーリの研究はかえってそうした<系譜学としての思想史>が成立する機制、ある人物が後世によって<大思想家>とされるに至る経緯そのものを暴き出すという積極面を持っているのではなかろうか。「イタリアというプリズム」を通したとき、<可能性としての近代>が視えてくる。
〔p.206〕
22.ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで ――カリブ海域史、1492-1969ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで 』(I)(II) (岩波現代文庫)評者:北村暁夫
Williams, Eric From Columbus to Castro, 1970
『コロンブスからカストロまで 』は、1970年に書かれたウィリアムズの集大成といえる作品である。題名に象徴的に表されているように、本書はコロンブスのアメリカ大陸”発見”から、カストロのキューバ革命にいたる五百年のカリブ海域の歴史を扱っている。しかし、この本はカリブ海域という、日本人にはごく断片的な知識しかない地域に関して、目新しい知見を提供しているだけではない。ヨーロッパ、西アフリカ、カリブ海、の三角貿易やインド、中国からの労働者の移入を通じて、いかにカリブ海が他の地域と密接に結びついていたか、しかもただ単に連関していたというだけでなく、その要の位置にあったかといことを示している。われわれがよく見る世界史の概説書では、カリブ海域の歴史はほんの添え物みたいなものだった。この本はそれとはまっさかさまに、カリブを軸にしてみた世界史的叙述の試みであり、またカリブがそうした試みに耐え得る、世界史の成立に欠くことのできない地域であることを教えてくれる。
〔p.211-2〕
本書を通じてのウィリアムズの議論の特徴のひとつは、奴隷制・奴隷貿易の解釈である。それは次の二つの論点に分けられる。第一は、十七ー十八世紀の資本主義成立期に奴隷制が果たした役割である。・・・。
これに対しウィリアムズは、資本蓄積はイギリス国内の自生的発展によるものではなく、新大陸、とりわけ西インド諸島との交易によってもたらされたと説く。
奴隷制に関する第二の論点は、奴隷貿易・奴隷制の廃止をめぐってである。それまでのイギリス史学の正統的解釈では、「聖人」とよばれる人道主義的な人々の獅子奮迅の活躍が十九世紀の奴隷貿易および奴隷制廃止をもたらした、ということになっていた。ところが、ウィリアムズによれば、あくまでそれは経済の原則に則って、すなわち利潤が低下したことが原因であった、とされるのである。
〔p.212-3〕
だが、いまやウィリアムズの残した種子は、さまざまな形で芽を吹き出している。その一つがいわゆる「従属理論」である。
〔p.214〕
この「従属理論」をさらに発展させ、十六世紀以後の世界史を「世界資本主義経済」という単一のシステムとして説明したのが、I.ウォーラーステインの「近代世界システム論」である。
〔p.215〕
とはいっても、ウィリアムズの文体は、熱いメッセージを含んでいるにしてはあくまで冷静で、しばしば鋭い皮肉やユーモアに満ちている。経済史家らしく数字もふんだんに使われているが、けっして経済の分野に偏ることなく、政治・経済・思想が複雑に絡まりあいながら時代が推移する過程を巧みに描いている。けだし、すぐれた歴史書とはそのようなものなのであろう。
〔p.217-8〕
■ブログ主雑感
ドイツ国制史の名著という点では、9.ブルンナー『ラントとヘルシャフト』の翻訳が待たれます。
また、最近、大日本帝国議会について考えることがあり、それからすると、ヒンツェ『身分制議会の起源と発展』に比較史的観点から読まなければならないかな、と思います。
ヨーロッパ思想史の、生産者サイド(思想家)ではなく、需要サイド(民衆への普及)とそれを媒介した、商人の移動や書籍の流通への関心からは、21.ヴェントゥーリ『啓蒙のユートピアと改革 』のダイナミックな構成は必読か、と思いました。
フーコーの「知の考古学」ですが、私の了解している範囲では、ドイツ国制史の概念史アプローチと実質的に同じものに見えます。すると、米国のラブジョイ一派の観念史とも共時的関連が出てくるかも知れません。ラブジョイはフランス系米国人ですし。
個々に読めましたら、弊ブログで別途ご報告します。
■本連載シリーズ、ようやく完成!
樺山紘一編著『現代歴史学の名著』1989年中公新書(前編)
樺山紘一編著『現代歴史学の名著 』1989年中公新書(中編)
樺山紘一編著『現代歴史学の名著 』1989年中公新書(後編①)
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