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2019年2月22日 (金)

吉田裕著『日本人兵士』2017年、を読んで ― あるいは、歴史的思考法について(2)

 下記の本書のレビューを、amazon.co.jpに投稿しました。同工異曲ですが、テイストはだいぶ変更しました。ご笑覧頂ければ幸甚です。

■amazonレビュー投稿文
「日本軍の「愚かさ」は日本人の「愚かさ」か?」

「私は戦(いくさ)に勝つのは兵の強さであり、戦に負けるのは将の弱さであると固く信じている。」
 上記は、故服部正也氏の名著『ルワンダ中央銀行総裁日記』中公新書1972年(増補版2009年)の最終頁からの引用です。氏は太平洋戦争に従軍し、ラバウルで海軍大尉として敗戦を迎え、そのまま当地でBC級戦犯の弁護人をされた人物でもあります。
 この故服部氏の信条倫理が、旧軍の高級軍人たちに共有化されていたなら、吉田氏の本書にみる、目を覆いたくなるような、俄かには信じ難い、日本史上の汚点は残らなかったと考えます。
 評者の亡父は太平洋戦争末期、海軍特攻兵器「震洋」搭乗員でしたが辛うじて生還し、中国・厦門(アモイ)で捕虜生活の後、引き揚げています。父方の祖母はテニアン島で米軍の火炎放射器によって焼き払われています。亡父が戦争中や軍隊でのことを話したがらなかったのは、先に逝った戦友たちへの鎮魂ばかりではなく、戦争末期の酷い軍隊生活や、戦場での惨めさのためもあったと、本書を読んで改めて思い直しました。〈思い出したくも、話したくもない〉と。
 個人的所感とは別に、本書を一読後、溜息とともに、この「旧軍の愚昧さ、の原因・理由はなにか?」と問わずにおれないのは、評者だけではないしょう。腹が立ちすぎて、「これは日本人が愚劣で、合理性に欠けるからだ」と、言い放ってしまいそうにもなりますが、そこは評者も服部氏の信条倫理に共感・同意しますので、やはり旧軍エリート層に問題があった、とまずは考えるべきでしょう。
 その問題とは、旧軍エリート層の〈悪行〉ではなく、「将の弱さ」すなわち、〈将の愚かさ〉のことです。吉田裕氏の著作の後に、私たち現代日本人がいま改めて考えなければならないのは、旧軍の〈愚かさ〉の社会科学的な原因追及であろうと思われます。
 そして、もし〈国軍〉が〈愚か〉だったとするならば、エリート軍人の〈愚かさ〉という矮小な問題ではなく、〈国軍〉という統治の根幹を含む統治体制そのものの問題、統治機構のメカニズムに動作異常する原因があったのではないか、と疑ってみるべきでしょう。
 その点からすると、とりわけ、明治憲法体制が形成された、維新動乱から明治前半の、統治機構における国軍の位置づけに改めて光を当てるべきだと思われます。「統帥権」あるいは「統帥権の独立」の問題の種子は、既にその時点で蒔かれていた可能性が高い。なぜなら、士族の反乱鎮圧から、日清・日露、に至るまで、軍隊指揮権(「統帥権」)の所在という点で、統治者たち(元勲たち)内部で常に鋭い対立点として蒸し返されていたからです。また、〈明治の軍隊〉と〈昭和の軍隊〉が別ものと考える合理的根拠はどこにもないからです。

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