ヴァルネラビリティを巡る、パスカル、レヴィナス、吉野源三郎(Pascal, Levinas and Yoshino Genzaburo On Vulnerability)
以前、vulnerability(人間の傷つきやすさ)について、2編の記事を書きました。
H.L.A.ハートの「自然法の最小限の内容」(H.L.A.Hart "The Minimum Content of Natural Law")
この件に関して、一人の知友が卓抜なエッセイを書いていて、それを久しぶりに読み、感銘を新たにしました。忘れないうちに弊ブログ上にも記録しておきます。
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上記エッセイに書かれているのは、今から80年前のヴァルネラビリティ論の紹介です。それが、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』でした。その原文を読んだら、その節の冒頭にパスカル「エセー」からの引用がされていました。どちらもよい文なので、吉野は原文を、パスカルは邦訳と英語訳を掲載しておきます。
レヴィナスのvulnerability論は、福祉やケア論で話題になっているようですが、詳しくはわかりませんでした。ただ、彼はあの《Shoah》を生き延びたユダヤ人ですから、彼の本の端々には出ざるを得ない言葉だろうとは思いますし、下記のような会議が催されることからすると、いまホットな話題なのでしょう。
The 14th Annual Conference of the North American Levinas Society
Levinas Conference - "Vulnerability", February 28, 2019
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』1982年岩波文庫「人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて」
(新潮社版1937年)
pp.249-50
「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだとは認めない。なるほど、「自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ」というのは真理だが、しかしまだ、ひとが自分自身をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだというのも、同様に真理である。だから、こういう人間のあわれさは、すべて人間の偉大さを証明するものである。……それは、王位を奪われた国王のあわれさである。」
「王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。……ただ一つしか口がないからといって、自分を不幸だと感じるものがあろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするものである。」
(パスカルからの引用)
中略
pp.254-7
からだが傷ついているのでもなく、からだが饑(う)えているのでもなく、しかも傷つき饑え渇くということが人間にはある。
一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えて来る。
しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。
そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基いて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。
僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。
自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。
「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある。」
これは、ゲーテの言葉だ。
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
しかし
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。
パスカル『パンセ』松浪信三郎訳、世界の大思想8、河出書房1965年、pp161-2
No.409
人間の偉大。 人間の偉大は、彼の悲惨からしてもそれを引き出すことができるほどいちじるしい。なぜなら、われわれは、動物において自然であることを、人間においては悲惨と呼ぶからである。そのことから、われわれは、人間の自然性は今日では動物のそれと等しいとはいえ、かつては彼自身のものであったいっそうすぐれた自然性から、堕落したのだということを認める。
そもそも位を奪われた国王でなくして、誰が国王でないことを不幸だと思うであろうか? パウルス・エミリウスが執政官をやめたのを、人は気の毒だと思ったのであろうか? 反対に、世間の人々は、彼がかつて執政官であったことについて、仕合わせな人だというふうに考えた。というのも、彼の身分は、いつまでも執政官であるべきものではなかったからである。たが、ペルセウスが王位を失ったのを、人々は気の毒だと思った。というのも、彼の身分はいつまでも国王であるべきであったからであり、人々は彼がおめおめと生きながらえたのを不思議に思ったくらいだからである。
自分に口が一つしかないのを、誰が不幸だと思うであろうか? 眼を一つしかもたないのを、誰が不幸だと思わないでいられようか? 眼が三つないからといって、それを悲しいと思った者がかつてあったであろう? だが自分に眼が一つもないとしたら、あきらめるにもあきらめようがないであろう。
Pascal's Pensees -Section 6
SECTION VI: THE PHILOSOPHERS
409. The greatness of man.--The greatness of man is so evident that it is even proved by his wretchedness. For what in animals is nature, we call in man wretchedness, by which we recognise that, his nature being now like that of animals, he has fallen from a better nature which once was his.For who is unhappy at not being a king, except a deposed king? Was Paulus Aemilius unhappy at being no longer consul? On the contrary, everybody thought him happy in having been consul, because the office could only be held for a time. But men thought Perseus so unhappy in being no longer king, because the condition of kingship implied his being always king, that they thought it strange that he endured life. Who is unhappy at only having one mouth? And who is not unhappy at having only one eye? Probably no man ever ventured to mourn at not having three eyes. But any one is inconsolable at having none.
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