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2019年5月 8日 (水)

なぜ私は歴史を志向するのか

 私が歴史あるいは歴史学方法論にこだわる理由は二つあります。

 一つは、1945年の大日本帝国の敗戦です。なぜ、多くの日本人や外国人が死ななければならなかったのか。私の祖母や叔父、伯母たちはなぜ米軍の火炎放射器で焼かれなければならなかったのか。そして、帝国陸海軍末期の無様な断末魔です。1868年から1945年まで、帝国臣民にあれほど《力》を振るった帝国陸海軍が、最終局面では内部秩序さえ崩壊し、軍としての体もなさなくなった部隊が続出していた。

 ※参照 吉田裕著『日本人兵士』2017年、を読んで ― あるいは、歴史的思考法について(1)

 二つは、現代文明の現状は不可避だったのか。現代の石油文明が環境問題の慢性的悪化を結果的に放置し続けるのはなぜなのか。ピーク・オイルを迎えても、原発から「核のゴミ」を出し続ける理不尽。イージーな(つまり安価な)オイルが枯渇すれば、「核のゴミ」を処理するリソースそのものがなくなるというのに。

 こうしたことは、日本人、あるいは人類が、どこかで路線を違えていれば、あるいは軌道修正できていれば、避けることができたかも知れない。どうすれば、なにがあれば、《いま》と異なる、「ましな」別の現実があり得たのか。そこが知りたい。

 それには、歴史的決定論は無論の事、恰も神の高見から眺めるような視点では、過去を見直せない。人間の意志を超えた、超越的な意図や外在的な法則に人々が突き動かされるのではない。かと言って、いつでもどこでも、人間は意図していることを何の困難もなしにすることができる、とまではいかない。苦渋や困難の中にも存在する人間の可能性。この人間の生の現実を直視した歴史観、歴史叙述が欲しい。私の願望はこれです。

 そのための方法論が複雑系アプローチであり、それを具体的に歴史過程に即して構成したのが、《歴史資源論 theory of historical resources》です。人間が、この無限の多様性と広がりを持つ世界において、合理的に追求できることには限界があります(合理性の限界 bounded rationality)。従いまして、ひとが何か行動を起こそうとするとき、それを多少なりとも、支援、補完する資源 resources が必要です。それが、私たちの身の回りにある、モノ、ヒトであり、過去から継受している、過去の人びとが考案・制作したモノ、制度、観念、思想、所作といった「伝統」です。だから、「伝統」は私たちを縛るものではなく、複雑多様な「世界」に対して、その限界ある能力のために行動が委縮しがちな私たちを支援し、むしろ行動の自由をもたらしてくれるものであるわけです。

 ※参照 ブリコラージュと資源論(Bricolage and theory of resources)

 「伝統」を真の意味で革新し、人類に新しい次元を見せてくれた人々の事績をみると、「伝統」と格闘し紆余曲折ありながらも最終的には、例外なく「伝統」を踏まえた上でそれを乗り越えています。人間における「革新」とは、あたかも「伝統」から切断されたところに、「無から有」を生み出すことでなし得る。それが創造性 creativity 、独創性 originality である、かのように近代の私たちは思い込んでいる節があります。しかし、それは進歩史観からもたらされたひどい錯覚 illusion に過ぎません。政治的リセット主義、いわゆる「革命」至上主義はその病理現象です。

 こうして、軌道の上を走る列車のように環境から指定されたコースを自動運転するのでもなく、神のごとき理性で最善を選択できるといった奢り arrogance に立脚するのでもなく、人間の等身大に相応しく、来し方行く末を語ることが可能となります。 

 私が生を享け、その渦中にある、日本列島とその歴史。それを思うとき、冒頭にあげた二つの問いかけを解きほぐすために、私が選ぶのは、徳川日本の270年と明治日本100年の関連です。「変わる」ことと「変える」こと、「続く」ことと「続ける」こと。列島を舞台とした人々の右往左往を with cool heads but warm hearts (Alfred Marshall,1885)に再評価すること。これが今の私の念願です。

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