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2019年6月17日 (月)

現代日本人は「徳川日本」を1%しか知らない

 国文学者中野三敏氏は、これまでの氏の徳川期の和本調査の体験から、現代日本人が各図書館や書店でアクセス可能な、活字に翻刻された徳川期のタイトル数は、実際に徳川期に流通していた和本総タイトル数の1%弱ではないか、と推測しています。中野三敏氏がそう考える根拠は、下記のようなエピソードを幾度も経ているからです。

中野三敏/肥田晧三編『近世子どもの絵本集 上方篇』1985年岩波書店刊
 中野三敏・解説「上方子ども絵本の概観」pp.494~5

・・・。すなわち近世の子ども絵本は、その発生期に遡って、従来の文学史の記述を完全に書き改めねばならぬ事態が出現したのである。事ここに至ってまず上方版子ども絵本の綜合的調査が必要となった。
 とはいえ事柄は単純で、前述した通り上方子ども絵本の収書家など、そんなにあるはずもない。中村氏を筆頭に、大阪の肥田皓三氏、それに及ばずながら筆者の分、これだけでも一応の見当づけにはなろう。それも三人寄せ集めれば、三分の一ほどは重複するだろうというのが最初の見通しであった。しかし実際に三人分の百点ほどを集めてみて驚いたのは、殆ど重複しないことであった。さらに図書館では唯一の纏ったものとして国会図書館蔵の『絵本あつめ草』と仮題する叢書がある。これは名古屋の有名な貸本屋大惣が営業に用いたもので、約二百点ほどを、四十四冊に合本してあり、それがそっくり国会図書館におさまったものである。甚だ無惨にも全点が前後の表紙をはぎとられ、中味だけを五、六点ずつ一冊にして厚手の表紙を補って綴じてあるのは大惣の営業用の所為である。すなわち一点扱いでは商売にならぬから五、六点を一部にしなければならないほど、頼りない本であることが、このあつかいからもわかる。この『あつめ草』二百点ほどと、前述の三名分百点ほどとを突き合わせた所、これ又重複するもの僅かに数点にすぎなかった。かくして、たちどころに三百点近くの上方子ども絵本を登録することが出来たのである。その後さらに数か所の図書館にそれぞれ四、五点ずつを見出し、故瀬田氏や信多純一氏御収書をも拝見出来、その他数氏の暖かい御提供もあり、それらを綜合し、子ども絵本と認定出来るものを抜き出してょうやく後掲する程度のリストを作製する所までこぎつけた。
 恐らく重複の度合いから類推して、既刊の全点数は千点を超えるものと思われ、我々がリスト・アップ出来たのは辛うじてその数分の一に過ぎぬのではないかというのが実感である。

 上記、いささか長い引用になってしまいましたが、上記をもう少しコンパクトに言い換えるとこうなります。

 近世の国文学史での書誌学的調査・研究は、従来、子ども絵本関しては江戸における出版物ばかりでした。ところが、上方版も徳川17世紀半ば(寛文期)からあったということが偶然判明したので、上方版子ども絵本の総合調査が必要となりました。ただ、上方子ども絵本というマイナーな分野の収書家は、全国に数人しか存在しませんでした。それは、国文学者中村幸彦氏、大阪の肥田晧三氏、中野氏ぐらいでした。そこで、そのコレクションを集めればある程度の全体像が得られるだろう、ただし、三分の一程度は重複するだろう、と予想されていました。ところが一同に集めてみたら三人分で百点で、驚くべきことにほとんど重複しませんでした。また、その集合体に、国会図書館に収蔵されていた、名古屋の徳川期貸本屋の営業用子ども絵本二百点も加えて調査したのですが、さらに驚くべきことに、合計三百点ばかりの上方版子ども絵本の中で重複したのが数点のみでした。そこから、中野氏たちは、上方版子ども絵本の出版総タイトルは千点を超えると推論しています。ちなみに、これは「上方版」子ども絵本のみの話です。江戸版はまた別にあります。

 故網野善彦も、ほぼ同じ感触を得ていたようです。

近世の書誌学、書物についての研究はもっとやらなければならないことがあるはずだと思うのですけれどね。たとえば旧家に行くと、蔵に膨大な書物が残っています。ところがこれまで歴史家はそういうものには目もくれず、文書ばかりを漁ってきたのです。そもそもなぜこれほど多くの書物がこうした旧家にあるのかを含めて、その内容に即して研究すべきことは非常にたくさんあると思いますね。こういう状況から見て、江戸中期以降の本の流通量は大変なものだったはずです。
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』2008年洋泉社MC新書、p.104〔フォント強調は引用者〕

 中野三敏氏はこう主張します。現代日本人の江戸観は、江戸期の出版物の1%の知識に基づいている。それで江戸をわかったと言えるのか、と(中野三敏『江戸文化再考』2012年笠間書院)。つまり、現代日本人は、「江戸」あるいは「徳川日本」の実態を、僅かばかりの資料に基づき、議論しているのではないか、というわけです。

 ことほど左様に、実は徳川期に関して、プロの近世史家でさえその正体はよくわかっていないことになります。付言しますと、子どものための絵本の出版は、徳川日本が世界で最初です。こういう、人類史的に重要な事実が学校日本史では教えられていない(高校の日本史教員もほとんど知らない)、というところに大きな問題があります。

 ついでのついでに言いますと、古代ギリシア人には姓(family name)はありませんでした。名のみです。これは古代ギリシアの直接民主制に直結します。また、イングランド17世紀の「名誉革命」とは、オランダ軍がイングランド内戦に介入した占領でした。オレンジ公ウィリアム三世がマッカーサー、オランダ軍が進駐軍です。高校世界史ではそう習いませんが。19世紀米国の南北戦争(内戦)は、もう少しで南北分断国家を誕生させるところでした。1862年9月大英帝国が南部側のアメリカ連合を承認する寸前だったのです。そこを逆転したのがリンカーンの「奴隷解放予備宣言」でした。リンカーンの「奴隷解放」宣言は、人類の権利拡大に貢献したというよりは、一つの大「アメリカ」を維持し、20世紀を「アメリカの世紀」にしたことで、人類史的意味を持っているのです。

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