« 江戸人の「本居信仰」(2) | トップページ | 「modernity」の二つの起源 »

2019年6月 1日 (土)

ミメーシスとしての読書 (Reading as mīmēsis [ μίμησις ])

 読書は、ある時点/ある場所で、ある人物によって著された文字列を、別の時点/場所で他者が読むことです。

■ communicate or animate?
 そのため私はこれまで読書を、読み手にとっての《他者とのコミュニケーション》、とりわけ過去に生きた人々とのコミュニケーションと考えてきました。確かに、対象の文字列は、読み手とは別の時、場所、別の書き手によって生まれています。しかし、よく考えると、書かれた文字列を読むのは読者です。《読む》という積極的な働きかけがあって初めて、読書は成立します。CDやDVDがなんらかのプレイヤーを必要とするのと同じく、本も再生装置(=読み手)が存在しなければ甦らない代物です。読み手の存在によってはじめて息が吹き込まれ(animate)、現代に再生する訳です。

■《読む》とは…
 紙片の上に、インクの染みとして残されている線状(linear)の文字列/記号列を、眼で追いながら脳細胞に流し込みます。同時に、逐次その文字列/記号列を、単語/文節/文/段落/…と分節化(articulation)しつつ、全体の文脈への再統合を試みます。この《分節化》と《再文脈化 re-contextualization》を往復しながら、著者のメッセージの様々な読解可能性を探求します。この作業では、著者の説明の理路を忠実に辿り直します。つまり、追試、追体験、再実行と言えます。これはミメーシス「再現」(representation)そのものです。

■ミメーシスとは、模倣/再現/演ずること
 ミメーシス論の魁はアリストテレス大先生の『詩学』です。その岩波文庫版(松本仁助・岡道男訳)の訳者註(8)p.114-5、にミメーシスの詳細な註があります。引用します。

 ミーメーシス(mimesis)の訳。ミーメーシス(動詞はミーメイスタイmimeisthai)はふつう、なんらかの対象を模倣・模写することによってその模像をつくること、およびその結果として生じる模像関係をあらわす。それは、模倣、模写のほか、ものまねをすること、俳優が役割を演じること、(手本などを)見ならうことなどの意味を含む。プラトーンはこの語を彼の哲学についても用いたが、それを文芸について用いるときは模倣、模写の面を強調し、芸術的模倣、模写によってつくられた感覚像は物事の本質(真実)をあらわすことができないと考えた(『国家』)。これにたいしアリストテレースは、『詩学』において、ミーメーシスという語をより積極的な意味で使用している。すなわち詩は、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされる行為のミーメーシスを通じて、普遍的なことを目指すことができる(ミーメーシスの対象である行為が「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」なされるというのは、行為のミーメーシス、すなわち筋(ミュートス)が「ありそうなこと」と「必然的なこと」の原理、アリストテレース『詩学』(第1章訳注)内的統一の原理にもとづいて組みたてられることを含意する)。詩は、普遍的なこと、起こる可能性のあることを語るゆえに、個別的なこと、実際に起こったことを語る歴史にくらべて、より哲学的であり、より深い意義をもつものである(九章1451b4-7)。まだそれは過去、現在のこと、人々がそうであると語ったり考えたりすることのみならず、そうあるべきことも描くごとができる(二五章1460b1-11)。
 アリストテレースにとってミーメーシスの基準は、事物が模倣・模写されているかどうかという点だけにあるのではない。本訳ではミーメーシス(およびその関連語)は、「ものまねする、手本を見ならう」などの意味で用いられる場合を除き、「再現」(representation)という訳語で統一したが、しかしこの語の本来の意味は「模倣・模写」であることを忘れてはならない。「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」という句については七章注(5)参照。

■学習過程(learning)としてのミメーシス
 読書が典型的な学習過程の一つであり、読書がミメーシスならば、ミメーシスは学習過程そのものです。このことは、私たち、日本語話者にとって、むしろあたりまえのことだと言えます。
 なぜなら、「まなぶ(学ぶ)」「まねぶ(学ぶ)」は同語源であり、「ならう(習う、倣う)」は文字通り自己の外に存在する模範 model をミーメイスタイ(模倣)することだからです。こういった learnnig として「まねび」「ならひ」の用例は、古事記、日本書紀から平安の女房文学まで枚挙にいとまがありません。すなわち、古来からこの列島の人々にとり、新しい「こと」を身につけるようと思うなら、まず「ならひ」「まねぶ」ことは当然だった訳です。近年のケータイ全盛以前までは、私の実感値では、鉄道の車両で、3割は居眠り、6~7割は読書していましたが、それも宜(うべ)なるかな、と今さらながら合点がいくのです。

■日本人と創造神話
 私たちの住まうこの列島の、ユーラシア大陸に東端に、北と南の狭い海峡を介して、おまけのようにくっついているという地理学的現実は、最終氷期以降、縄文時代から1万年間変化がありません。簡単にいえば文明の終着駅です。これを「ターミナル文化」と客観的に言ったのは、東洋史家宮崎市定*でした。言い得て妙、でしょうか。この文明の地理学からして、originality、creativity、といったことを言い募るのは、野暮であり、未熟さの裏返し、というものなのだろうと考えた次第です。

* 宮崎市定『古代大和朝廷』1988年筑摩叢書(327)、p.210 古代大和朝廷 (ちくま学芸文庫)

|

« 江戸人の「本居信仰」(2) | トップページ | 「modernity」の二つの起源 »

学習理論」カテゴリの記事

読書論」カテゴリの記事

Aristotle」カテゴリの記事

ミメーシス」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 江戸人の「本居信仰」(2) | トップページ | 「modernity」の二つの起源 »