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2019年11月 4日 (月)

藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』1985年中公新書

 以下は、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯―幕末明治のテクノクラート』1985年中公新書(No.782)、からの抜粋です。それは、幕末維新の二人の英雄(一人は政治英雄、他の一人は文化英雄)の評価に関わるものとして無視できない記述と考えます。その意味で、広く知られたほうが良いと判断しました。その二人とは、勝鱗太郎福澤諭吉です。

◆勝鱗太郎
〔本書、P.12-13〕

勝麟太郎
 この遠洋航海で最も無能ぶりを暴露したのは、艦長の勝麟太郎であった。出港してすぐ船酔いにかかり、アメリカに着くまでほとんど甲板に出てこなかった。出港前から病気だったともいっているが、それなら艦をおりるべきであったろう。
 後年、木村喜毅はこのときのことを「勝さんは、ただフネに酔ったという許りでなく、つまり不平だったのです。(中略)甚しいのは、太平洋の真中で、俺はこれから帰るからバッテラ(短艇)をおろせと、水主に命じたほどでした」(『咸臨丸船中の勝』)と語っている。
 このような勝は、艦の士官たちからも次第にうとんじられるようになった。サンフランシスコで咸臨丸が米海軍から二十一発の礼砲を受けたので、部下の士官がその答砲の許可を求めると、勝はもし礼砲発射に失敗すると恥になるから答砲は控えた方がよいという。砲術方兼務の運用方・佐々倉桐太郎は、失敗するはずはない、答砲すべきだという。勝は、やりたければ勝手にやれ、成功したら俺の首をやるといったという。無事答砲を終えた佐々倉は、「今勝麟の首をもらってもよいが、艦長も首がないと不便だろうから、日本に着くまで預けておこう」と並居る士官たちを笑わせたという。
 木村司令官は、幕閣から与えられた使命にかんがみ、パナマまで「ポーハタン」号に随伴し、それから先は、咸臨丸を勝に任せて帰国させ、自らは正使らとともにワシントンに赴くつもりでいたが、勝がこのような状態ではそれもできず、やむなくサンフランシスコから咸臨丸で引き返さざるをえなかった。勝が帰国後、海軍から蕃書調所頭取助に、次いで陸軍の講武所砲術指南役に転属させられたのは、木村が勝には海軍の適性なしと見たからである。

〔本書、P.186-192〕

勝海舟の虚像と実像
 今まで折にふれて、友五郎をめぐる周辺人物の幾人かについて語ってきた。しかし、幕臣時代、友五郎をライバル視続けてきた勝麟太郎と、小栗忠順を中心とする有司集団や友五郎のつながりについて、若干補足しておかなければ、小野友五郎という人物を語りつくしたことにはならないであろう。
 勝は、非職の場合を除き、その幕臣生活の大部分を海軍方として過ごした。友五郎も組こそ初め海軍方、後に勘定方と変わったが、その業績は海軍関係が主で、彼には非職の期間かなかったから、海軍に関係した実歴は彼の方がずっと長い。この間、友五郎の方はともかく、勝はずっと小野友五郎をライバルとして意識していた。
 一国を海軍国に仕立てあげるには一世紀の歳月を必要とすると、一般にいわれている。戦前の日本帝国海軍は、帆走木製艦の時代が終わり汽走鋼鉄艦の時代に、青銅製先込滑腔砲の時代か終わり鋼鉄製元込施条砲の時代に入ったときに発足するという好運に恵まれ、七十余年の歴史をもって、何とか英米に伍する海軍を作りあげた。しかし、それは幕末海軍十余年の歴史を引き継いだからこそのことであった。近代海軍の基礎作りは、すでに幕末にできていたのである。
 その意味において、戦前には「日本海軍の父は勝海舟である」とひろくいわれていた。果してそうだったのであろうか。たしかに勝は、長崎海軍伝習所で艦長教育をうけ、咸臨丸の航米では艦長役をつとめた。その後、幕府時代には、軍艦操練所頭取・軍艦奉行並・軍艦奉行・海軍奉行並と海軍方の役職を断続的に歴任した。そして明治初期には、新海軍の海軍大輔・海軍卿を勤めた。なるほどその経歴は日本海軍の父と呼ぶにふさわしい。
 しかし、これらの経歴を通して、果して彼は日本海軍の基礎作りに、実質的にそれほど貢献したのであろうか。答えは否というべきだろう。当時、幕閣も諸有司もそのことはよく承知していた。たが彼には、人一倍すぐれた才能が備わっていて、ある意味では幕府に是非必要な存在たった。それは、巧みな弁説をもって周旋・調停をする能力である。これは親譲りの才能らしく、彼の父小吉は、本所界隈の無頼の徒のもめごとを巧みに収拾し、それが生活の資を得る手段にもなっていたと、『夢酔独言』で自らのべている。
 海舟は、航米後いったんていよく海軍を追われたが、大久保越中守忠寛(一翁)、松平慶永(春嶽、政事総裁職に就任)、将軍家茂など、海軍のことに暗い時の権力者に直接接触する機会を作って、これに働きかけ、海軍に返り咲くことができた。しかも、後には逆に幕閣の方が彼に周旋・調停の役をやらせる必要が生じたとき、進んで彼を海軍のしかるべき役職に呼び戻したのだった。彼の属した組は海軍方だったから、その役につける以外、彼に下命する方法がなかったからである。以下その様子を具体的に概観しておこう。
 長崎海軍伝習所では、学生長としてオランダ人教官と伝習生の間をとりもったので、教官には重宝がられたが、肝腎の自分の学業の方はおろそかになり、留年を余儀なくされた。咸臨丸の航米では、艦長としての無能ぶりを暴露して、帰国後海軍からていよく追放された。それが文久二年(一八六二年)軍艦操練所頭取、次いで軍艦奉行並に返り咲くことができたのは、大久保越中守忠寛にとり入り、その推挙によったからであった。しかし、軍艦操練所では、海軍に無能な者が頭取や奉行並で来られるのは困ると、教授方にストライキをやられた。この教授方連中の一人に小野友五郎もいた。
 そこで、今度は、西上中の将軍家茂を大坂湾視察にひっぱり出し、じかに神戸の軍艦操練所設置の許可を取り付ける。この計画はなかなか軌道に乗らなかったが、元治元年三月、江戸の築地操練所が火災で焼失したので幕閣も進めざるを得なくなった。その諸施設が大体できあがり、そろそろ教育を始めようかという時に、勘定方・海軍方の猛反撥にあい、わずか半年でこの操練所はつぶされ、彼は非職にまわされた。後世、神戸操練所の教育が一時期とはいえ、実質的に行なわれたかのごとく信じられているのは、勝の晩年の法螺話に史家がまどわされたからで、この操練所での教育は実態なきにひとしい。実際の幕府海軍教育は、慶応三年七月、江戸の浜御殿に復興した江戸の築地操練所で、仏英による伝習を交えて、幕末まで施行されたのである。
 元治元年(一八六四年)に勝は軍艦奉行を命ぜられるが、これは、英米仏蘭四国の連合艦隊の下関攻撃を中止させるために、その交渉に豊後・姫島に派遣するためであった。これが失敗すると、ふたたび彼は非職となるから、軍艦奉行の任期中に奉行本来の職務を勤める暇はなかった。慶応二年に軍艦奉行を再勤するが、このときも、初めは長州再征にからむ京都での薩摩・会津両藩の確執を調停させようとし、次いで安芸の宮島で長州再征終結のために幕府と長州藩の間を周旋させようとしたのだが、孝明天皇の勅命をえて後者の必要がなくなると、彼はまた非職となる。
 慶応四年一月、海軍奉行並に任ぜられたが、これは彼の一世一代の調停のためで、大久保一翁(忠寛)と協力して西郷隆盛と交渉し、江戸の無血開城を取り決めたのである。彼の幕末の海軍経歴とはざっとこのようなものである。
 明治政府になって、勝の官幕間の調停の功に報いるために、初め海軍大丞の内談があったが、彼はこれを蹴る。彼が欲しかったのは、職務ではなく官位の方だった。そして明治五年海軍大輔を受け、次いで六年海軍卿にのぼせられて念願を果すことになるが、何の仕事もしないで、一年も経たぬうちに免官を願い出ている。このときも、西郷隆盛が鹿児島に島津久光の上京を促すために下ったが、中々成功しないので、その応援に赴かされたのであるが、それが終わると、海軍にもう長居は無用と、彼の方からさっさとやめてしまったのだ。彼はまだ五十三歳の働き盛りであった。
 当時は、「勝の本領は政治的調停人で、昔も今も海軍はただ籍をおいているにすぎない」ということは、消息通は誰もが知っていた。彼の過去の事歴を知る人が、まだ幾人も存命していたからだ。
 後年、世の人に海軍部内の人にすら彼をして「日本海軍の父」と思い込ませるのに与って力があったのは、彼の編集した『海軍歴史』である。これは実際には木村芥舟(元摂津守)と長崎海軍伝習所二期生出身の伴鉄太郎か史料を蒐集し、勝が編集に与ったものである。その費用は樺山海軍大臣を通じて海軍からでている。この本は幕府海軍の貴重な史料を収録したもので、筆者も大いに利用させてもらったが、これを史料として読むに当っては、若干の注意を要する。木村芥舟と伴鉄太郎か蒐集した原史料は信用できるが、勝が提供した自分自身に関する史料は原本そのままではないこと、およびその編集方法と彼の付け加えた解説の部分が混乱しているために難解となっていることの二点である。これは彼が実際海軍の仕事にあまり従事していたかったことを露呈し、まだ彼自身の海軍への関与を実際以上に見せようとする意図をもっていたことを物語るものだが、近年研究がすすみ、『勝海舟全集』の編集者などの気付かれた点は注記されているので、助かる。
 この『海軍歴史』と晩年の彼一流の無責任な法螺話とが、両々あいまって、史実と違う伝説を作りあげてしまったといわざるを得ない。その最たるものが「咸臨丸の日本人単独運航説」などであろう。

帝国海軍の基を開いた人々
 慶応初年の『海舟日記』には、「今この閣老(老中・小笠原壱岐守長行)の信ずる所は、狎邪の小人塚原(昌義)、木下(謹吾)、小野(友五郎)、肥田(浜五郎)の輩数人に過ぎず」、「当分第一等の御処歴は、狎邪の小人三、四輩を除き」、「大邪(小栗上野介忠順)既に金を払郎西に借るの策あり」、「嗚呼、唐津(小笠原長行)、狎邪の小人、塚原・木下・小野・平山(謙二郎、後、敬忠)、その臣尾崎(嘉右衛門)輩を信用して」などの記述が度々出てくる。ここに名を挙げて「狎邪」の輩と罵倒されている人々は、当時の幕府有司の主流派、つまり非主流の勝からすればライバルである。
 真に幕府海軍の建設に当り、明治の帝国海軍の基を開いた人々は、これらのなかにいるのである。すなわち、小栗忠順、小野友五郎、木下謹吾、肥田浜五郎らが、それである。海軍は軍人と軍艦と工廠からなる。「狎邪の小人」小野友五郎・木下謹吾・肥田浜五郎らは、「大邪」小栗忠順を中心として、あるいは軍艦操練所を整備して海軍士官を養成し、あるいは軍艦・商船を建造・調達して艦隊を整え、あるいは海軍工廠を興して軍艦・兵器の新造・修理をはかるなど、着々と海軍建設の努力を重ねたのである。
 「日本海軍の父」というならば、それは海軍の位階をのぼりつめた勝海舟ではなく、海軍の建設に地道な努力を続け、実際に貢献したこれらの人々を呼ぶべきであろう。
 この人々は、果して勝のいうごとく、日本の将来が見通せず、ひたすら幕府の延命のために働いたのであろうか。その答えも否である。彼らは、幕藩体制の余命がいくばくもないことを、一番よく認識していた。それは幕府政治の中心にいて、幕府や諸藩の財政事情を誰よりもよく知っていたからである。(ちなみに、勝の幕末までの最高の職位は、軍艦奉行―戦隊司令官で、幕政の中心からみれば、現場指揮官にすぎなかった)。

 勝という人物が、いわゆる「信用ならない人物」ということが伺われます。後世に自らの望ましい歴史象を残したという意味で、よく言えばセルフプロデュースの天才、悪しざまに言えばペテン師 faker というところでしょうか。作家司馬遼太郎と根底的なところで共通しています。


◆福澤諭吉

〔本書p.117-120〕

お荷物随員・福沢諭吉
 今回の米国行において、福沢諭吉は終始使節団にとってはお荷物となった。彼は前二回の洋行経験と英語能力をもって友五郎に随員として採用してもらったのだが、米国に渡ってみると、彼の英語力は、今日のいわゆる観光英語の程度で、とうてい公務の遂行には役に立たないことがわかった。彼の仕事は翻訳方つまり書記官の役だったが、日米往復文書の翻訳をやらせてみると、英文和訳はまだしも、和文英訳の方はてんで駄目引用者註1で、彼の訳文はとても公用文として使えるものではなかった。そこで自然、書記官の仕事は通訳の津田仙弥に行き、通訳の仕事は最も会話能力のすぐれていた尺振八の専任になってしまった。外国に出て特定の任務を遂行するとなると、本国における身分などに関係なく、実力のあるものがことに当らざるをえなかったのである。
 それに、福沢は他の団員とちがって、使節団の重要な使命も団員としての責任も自覚しておらず、たくさんの私的なアルバイトを抱えて行った。初めから彼にとってはその方が主で、使節団にはただ便乗したに過ぎなかったのだ。
 福沢に何かやらせると、へまばかりやって事務が渋滞するのが常であった。横浜で彼に為替を組ませたのだが、ニューヨークに着いても、この為替が現金化できない。彼は雑用を現地人にやらせて楽をしようと、チャールズという小使の採用を進言したが、この男に五〇〇ドルの公金を持ち逃げされてしまう。船で託送した荷物の荷揚交渉に手間どり、将軍から大統領への贈物が謁見の日に間に合わたかった等々である。
 いよいよ交渉となって文書のやりとりがはじまってみると、その翻訳はとても彼の手には負えないので、ちゃっかり津田に押付けようとする。津田は、自分の任務は翻訳方なのか通弁方なのかはっきりさせてもらいたいと、友五郎に訴える。友五郎は、福沢が津田に押付けた要翻訳書類を福沢に自分で訳すように渡すが、その翻訳はいつまでたってもできてこない。やむなく、友五郎は松本とはかって、福沢を交渉事務から外し、津田に翻訳方をやらせることにする。これに対し福沢はぬけぬけと、交渉の席に出ないのは構わないが、議事録の上では出席したことにしておいてもらいたいと友五郎に申し出で、あきれさせている。
 福沢はアルバイト用に五千両ほどの金を用意してきており、それで自前の書籍の購入に奔走し、三~四千両分を買い付けた。そこで友五郎は、彼に二万ドルで幕府の必要書籍の購入をやらせようとする。彼は幕府のも自分のも一緒に卸値で購入するから、卸値と小売値の差額をコミッションとして自分にくれと友五郎に申しでて拒否されたにもかかわらず、ひそかにコミッションをとり、また私用の書籍代金を公用の支払いに潜り込ませてしまう。
 さらに福沢は、アルバイトとして購入した大量の書籍の運賃を、幕府の公金による購入品のものと込みにしてごまかそうとした。書籍は重いからその運賃は馬鹿にならない。友五郎は乗船に先立ち、各人は私物と公物を区別し、私物の運賃は自分で支払うよう指示し、自らもそれを実行した。友五郎の勘定吟味役という立場を他の随員たちはよく理解し、会計については皆厳正にやっていた。ひとり福沢はそれに従わず、自分の荷物と幕府の荷物を一括して渡し、その運賃を公金勘定にした。
 乗船直前にこのことを知った友五郎は、船会社から運賃表をとりよせて福沢に渡し、この表で自分の荷物分の運賃を見積って、神野に戻入するよう命じる。船中で使節団の残務整理中、福沢に自分の荷物の運賃見積りはできたかと友五郎が聞くと、先の運賃表を紛失してしまったので見積りができないという。その運賃は、荷物の量からみて千ドルを越すものとみられていた。
 そこで友五郎と副使・松本は、帰国後、福沢の荷物を神奈川奉行に差し押えさせ、福沢を告発し、自分たちも部下不取締のかどをもって進退伺いを出したのである。

 上記は、福澤の実務上の語学力に関する情報と、彼の公務中における実質的業務上横領というべき仕業です。本書出版当時、福澤研究者からの応答はあったのでしょうか。

引用者註1)この点、福澤だけの問題ではありはせん。下記、参照。
英作文教育は無駄である: 本に溺れたい

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