« 漱石作品に見る近代日本人の《立場主義》化/ The "Positionalism" of Modern Japanese in Soseki's Works | トップページ | 祝1000票、amazonレビュー »

2019年12月25日 (水)

言葉は意味を孕まない(Language doesn’t conceive meanings and images.)

弊ブログで、以前「言葉は意味を孕んでいる」という記事をポストしました。

 しかしながら、その結論は表題とは逆のものとなってしまいました。本記事では、この議論を少し敷衍してみます。

◆言葉は音声?、それとも文字?
 言葉は基本的に音声情報です。なぜなら、文字が発明される以前であれば、全てのヒトは、他者に自己の意思を伝える際、言葉を声に出して伝え、また他者の言葉を音声で受け取ったからです。つまり、ちょっと矛盾していますが、《文字》の誕生以前は、すべての人類は「文盲」です。

 音声の特徴は、発した瞬間に消えてなくなるもの、であることです。せいぜい他者の脳の記憶野にしばらくとどまるぐらいでしかありません。したがいまして、言葉をパーソナルなものからインパーソナルなものにするため、言葉を対象化し操作可能なものとしたもの、いわゆる「オブジェクト object」化する必要があるわけです。これが、文字です。

◆意味はどこにある?
 言葉(や記号)そのものには、意味やイメージは格納されていません。

 前回での私の議論の結論は、よく考えるとそういうことでした。私たちの、耳から鼓膜を通じ、あるいは眼球から網膜を通じて、脳細胞の言語野に送られる信号の物理的発生源である音声。あるいは、光子として眼に飛び込む文字列。前者であれば、それは空気の振動や波にすぎませんし、後者であれば、例えばそれは紙に塗布された単なるインクのしみを反映した複数の波長を含む光線でしかありません。

 普通に考えればわかることですが、私たちは未知の外国語を聞いてもわかりませんし、古代エジプトのヒエログリフ hieroglyph はその道の専門家にしか意味を読み取れません。

 つまり、未知の言葉が《私》にとり意味不明なのは、《私》の脳細胞の記憶庫に、感覚器官に入力された音声データや光学データと突き合わせるための、《辞書》が存在しないからです。逆に、言葉や文の意味を《私》が理解できるのは、《私》の脳にそれと照合できる、《辞書》や《用例集 corpus》があるからです。

 「やばい」と言う言葉を聞いて、そこに「危険な」という含意を読み取るのか、「素晴らしく良い」という意味を読むのかは、受信者の頭の中の辞書が第何版か次第です。若者言葉にも通じている平成版なら後者で受け取るでしょうし、脳内辞書が昭和版なら「危険な」というメッセージに解するでしょう。

◆脳内《辞書》のupdate
 では、人の頭の中の辞書(やコーパス)は、どうやって、万人で同期化するのでしょうか。

 各個人の脳内の辞書やコーパスが同期化するのは、その各個人が他者とコミュニケートすることによります。日常のコミュニケーションは、ルーチン的なものですから、そう頻繁に意味が改訂増補されることはありません。それでも、ファッションの流行や、その時点その時点で流行する言葉があり、そういうものを聞いたとき、それが語彙として各人の脳内メモリーに格納されている辞書やコーパスの意味、用法とは、異なることはあり得ます。

 その場合、違和感を感じた語彙、文例に従って、自らの脳内辞書や脳内コーパスを改訂増補するかどうかは、当人にとりその語彙、文例がどれだけ身近なものか、に左右されます。当人にとって使用頻度の高い、身近に良く使う、語彙、文例であれば積極的に即時、改訂増補しようとするでしょう。「私にはあまり関係ないな。」と感じれば放置することになります。

 現代はネット社会です。このメディアを通じて、画像や動画情報としても、テキスト情報としても瞬時に言語情報が四方八方に伝達されますから、一国内の国民全員に新しい語義や用例が波及するのは私たちが想像するより速いかも知れません。

◆まとめ
 脳内辞書や脳内コーパスは個々人において異なるでしょう。とりわけ、語彙の領域、その深浅など、当人の《言語の生活圏》の特性ごとにかなり異なります。従いまして、一つの国語圏においてその使用者全員の、脳内辞書、脳内コーパスが完全に一致する必要はありません。同一国語民として、挨拶、食、等、どんな人物でも一日のうちで必ずルーチンしている《生活循環》に関する語彙・文例部分の脳内辞書・脳内コーパスが最低限、同期化されていれば、同一国語民として用は足ります。

 そしてこういう生活の核になる部分の語彙、文例は、一国語内においても保守的、堅牢で容易に変化しません。一方で、どの国語でも若者言葉はその語彙も意味も、用法も変化しやすいものです。また、都会と鄙では、人々の地域的流動性においても身分的流動性においても、都会のほうが異質な人々がコミュニケーションせざるを得ない確率は高いため、接触するその二つの言語圏は互いに変化を被りやすいでしょう。

 従いまして、長期的に変化速度が大きいのは、その国語民の若年層と都市部においてであり、保守的で堅牢なのは、生活圏の標準的な部分とその国語民の老壮年層あるいはエスタブリッシュな集団、といえます。前者を言語圏の《周縁》、後者を言語圏の《中心》と呼ぶならば、一つの国語に変化が兆すのは言語的《周縁》からであり、それが意外な速度で言語的《中心》を浸食し、一方で言語的《中心》が新要素を取り込み一つの国語として構成し直す。こうして一国の国語は歴史的に変遷していくことになろうかと思います。それは同時に、その国語民の一人一人の、脳内辞書・脳内コーパスの増改訂(update)を意味することになります。

|

« 漱石作品に見る近代日本人の《立場主義》化/ The "Positionalism" of Modern Japanese in Soseki's Works | トップページ | 祝1000票、amazonレビュー »

言葉」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 漱石作品に見る近代日本人の《立場主義》化/ The "Positionalism" of Modern Japanese in Soseki's Works | トップページ | 祝1000票、amazonレビュー »