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2019年12月 8日 (日)

かつて神様は日本語を廃せ、と告げられた〔2〕

〔1〕より。

 少なくとも、下記の小論における志賀の愚かさは、来年(2020年)の小学校・英語授業を開始する文部科学省と同水準の愚劣さだと考えます。

志賀直哉「國語問題」『改造』27(4), p.94-97 (1946年4月号)
志賀直哉「國語問題」『志賀直哉全集』第7巻. 東京 : 岩波書店, 1974, p.339-343

 私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い國語を知らず、外國語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたらう。英語辭書にない日本獨特の言葉も澤山出來てゐたらうし、萬葉集や源氏物語も今より遙か多くの人々に讀まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。
 若し六十年前、國語に英語を採用してゐたとして、その利益を考へると無數にある。私の年になつて今までの國語と別れるのは感情的には堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遙かによかつたと思はないではゐられない。
 國語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究會が出來、私は發起人になつたが、今までの國語を殘し、それを造り變へて完全なものにするといふ事には私は悲觀的である。自分にいい案がないから、さう思ふのかも知れないが、兔に角この事には甚だ悲觀的である。不徹底なものしか出來ないと思ふ。名案があるのだらうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに餘り期待を持つ事が出來ない。
 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。反對の意見も色々あると思ふ。今の國語を完全なものに造りかへる事が出來ればそれに越した事はないが、それが出來ないとすれば、過去に執着せず、現在の吾々の感情を捨てて、百年二百年後の子孫の爲めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。
 外國語に不案内な私はフランス語採用を自信を以つていふ程、具體的に分つてゐるわけではないが、フランス語を想つたのは、フランスは文化の進んだ國であり、小説を讀んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思はれるし、フランスの詩には和歌俳句等の境地と共通するものがあるとも云はれてゐるし、文人達によつて或る時、整理された言葉だともいふし、さういふ意味で、フランス語が一番よささうな氣がするのである。私は森有禮の英語採用説から、この事を想ひ、中途半端な改革で、何年何十年の間、片輪な國語で間誤つくよりはこの方が確實であり、徹底的であり、賢明であると思ふのである。
 国語の切換へに就いて、技術的な面の事は私にはよく分らないが、それ程困難はないと思つてゐる。教員の養成が出來た時に小學一年から、それに切換へればいいと思ふ。朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう。

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