« 漱石と近代日本語文体 | トップページ | ラプラスの悪魔 / démon de Laplace / Laplacescher Geist »

2020年1月12日 (日)

因果律と論理(the universality of causation and logic)〔改訂増補20200114〕

 弊ブログに久しぶりにコメントを戴きました。下記です。

記事拝見させていただきました。
正直、高等な内容でほとんどわからなかったのですが、、、
私が検索で記事を見つけたきっかけが、「原因と結果」について調べていたからです。
「原因→結果」論理的に考えれば矢印はこの向きになると思います。これはどこでもよく見る方向です。私も正しいと思っていたのですが、ちょっとしたきっかけで、自分なりに必死に論理的に考えていくと「結果→原因」なんじゃない?という考えになりました。
理由は、原因は結果によって定義づけられるためです。論理的には「出来事→結果→原因」なのでは?
と考えたからです。
検索した限りでは「原因→結果」は因果関係というそうですね。因果と論理の違いがわからず混濁しています。
記事を拝見し、これにについてご教授いただけるような気がしたので、質問させていただきました。
弊ブログ記事「論理と因果(5・おまけ)」への新しいコメント、匿名希望 様より


 匿名希望 様、弊ブログ記事へのコメント(質問)をありがとうございます。

 お尋ねの内容は、2点あるように思われます。

①因果関係は、通常は「原因→結果(原因から結果が生れる)」と思われているが、「結果→原因(結果から原因を特定する)」というように、逆の向きではないか。この考え方についてどう思うか?

②「因果と論理の違い」は何か?

以上、2点です。私のまとめが質問者様の意図とずれてしまうことを恐れますが、応答の便宜から、当面、この2点に関して私の考えを述べてみます。出来る限り具体例を用いて、抽象的にならないようにしてみます。

 順序が逆になりますが、②から応答いたします。その過程で、①にも回答することになるかと思います。

◆「因果関係」となにか?

 まず、「因果」と「論理」、この二つに共通する点は、ある事柄を理解する(or 理解させる)、「説明の方法」であるということです。

 今年の夏の終わりに超強力な台風19号が日本各地を襲いました。私も近所の体育館に避難したくちです。なぜ、このところ勢力の強い台風や強雨が何度も日本列島を襲うことが多いのかといえば、やはり「地球温暖化」との関連が疑われています。すでに「疑われる」レベルを超えて、この列島で暮らしている私たちにも「地球温暖化」が今後何をもたらすかを実感させている、というほうが正確かも知れません。

 この「地球温暖化」ですが、この原因はなんでしょうか。よく言われるのはこうです。

《二酸化炭素を始めとするガスが、人間の活発な経済活動のため、この150年ほど膨大な量で大気中に排出されて、それが「温室効果」を生んで、地球全体をジワリジワリと温暖化させている。》

 すでに、地球全体が温暖化しているらしい、ことに関しては概ね合意があるようです。しかし、その原因に関しては、「温暖化効果ガス」が真犯人である、という説に対して、地球の46億年の自然史のなかでは、地球は温暖化と寒冷化を交互に繰り返してきたのだから、そういう自然史的な変動と区別できるのか、という疑問もあります。「太陽の黒点移動」やら、地球の太陽を巡る公転軌道の摂動とかの影響がない、とは言い切れません。もしくは、それらの相乗作用かも知れない。

 すなわち、「地球温暖化」という人間の身体サイズからすると超マクロの現象は、私たち塵のような小さな存在である人間にとり、きわめて複雑な問題で、原因の特定は至難の業といえます。

 その一方で、「温室効果ガス犯人説」と「地球温暖化の自然史サイクル説」ではそのもたらす経済的影響が全く異なります。後者なら、人類に手の出しようがない(ように)と思われますが、前者ならCO2の排出量を商品化してビジネスが可能となります。ミクロには、「これはCO2を出さない〈環境に優しい〉製品です。」と言って消費者に売り込む、マクロには、〈二酸化炭素排出量を取引するグローバル市場を作り、それを先進国と途上国で売買する〉ビジネスで儲ける、といった具合です。こういったビジネスに利害を持つ人々は、「温室効果ガス犯人説」を支持しそうですし、産油国や石油メジャーのように原油や石油加工製品の売り上げに利害を持つ人々は、むしろ後者の研究を支持・支援するかもしれません。

 つまり、ある結果(物事/事柄)について、その原因を探求することは、かなり人間くさい行為だということになります。その意味で、因果関係とは、人間の人間(自己や他者)に対する「説明」の一方法と言えます。かのニュートンも、万有引力の法則を含む彼の知的達成は、「この世界(宇宙)における神の摂理」を顕現させる、という強い情念があったからです。これは、人間という生き物にとって、どれほど《因果律(すべての出来事には原因がある)》という思考法が大切であり、むしろ必需品であるか、を示しています。

◆「論理関係」となにか?

 もう一つの「論理」ですが、これも人間の人間に対する説明の一つです。そしてかなり形式的なものです。以下のよくある三段論法をみてください。

〈大前提〉「人間は必ず死ぬ」
〈小前提〉「renqingは人間である」
〈結論〉 「renqingは必ず死ぬ」

 もし、〈大前提〉が正しく、かつ、〈小前提〉が正しければ、〈結論〉は必ず正しい。これが典型的な論理性というものです。例えば、私(renqing)と、ある人物Aが口喧嘩します。私がAに罵詈雑言を浴びせます。すると、Aが私に「お前は必ず死ぬぞ。」と捨て台詞を投げつけます。私が「なんでそんなことを言えるんだよ」と返した時、Aが上の論法を持ち出せば、私が「人間は必ず死ぬよな。」「俺は人間だ。」と(心の中で)認めたら、最後の〈結論〉を否認することはできません。

 つまり、論理とは、ある結論(=言明)の形式的正しさ(必然的正しさ)を、それを導出する過程の形式的正しさによって保証することです。中学校でやる初等幾何学での、三角形の合同証明は、その典型です。「人間が必ずしも死ぬものではないなら」or「renqingが人間とはいえないかもしれないなら」、「renqingは必ず死ぬ」ことの形式的正しさは完全には保証できません。それ以上でもそれ以下でもありません。


〈大前提〉「現在、地球は温暖化している」事実命題(真偽のチェック可能)
〈小前提〉「二酸化炭素は閉鎖系では温室効果をもたらす」事実命題(真偽のチェック可能)
〈結論〉 「地球は増大する二酸化炭素によって温暖化している」

 この結論命題は、正しいでしょうか。これはこのままでは真偽とも不定です。
 なぜなら、
1)地球というある一定規模を有する超マクロで、準開放定常系のシステムでは、どの程度の二酸化炭素濃度があれば温室効果が顕著に発揮されるかがまだ不明確である。また、地球全体のシステムにおける、人間活動以外による二酸化炭素の産出/吸収のメカニズムはまだその全貌が判明していない(産出例:火山の噴火、吸収例:海水による吸収)
2)地球温暖化に他の要因も貢献しているならば、二酸化炭素によるその貢献度のシェアの高低で、二酸化炭素が主犯か、共犯か、ザコなのか、ケースバイケースになってしまう
ということで、上記の三段論法は、実は形式的にも穴だらけな訳です。

 論理は、ある条件下(導出過程がすべて形式的に真)においては、結論の必然的真を保証する、という途轍もない強力な説得力を持ちます。しかし、結論が強力だけに、その途中の品質保証の条件も無茶苦茶厳しい。従いまして、日常生活においては、仮定に仮定を重ねなければ使えないことが多く、むしろボロが出やすい、といえます。

◆「因果性」と「論理性」の違い

 実は、この二つには根本的違いがあります。

 「因果性」はすぐ気が付きますように、二つの物事A、Bは、「事象Aが起きた。引き続き事象Bが起きた。」のように、時間の前後関係にあります。この場合ならば、原因「A」/結果「B」です。

 一方、「論理性」は、「含む」「含まれる」の関係が全てです。A、B二つの円があり、AがBをすっぽり包含するのか、AがBにすっぽり包含されるのか、という二者の位置関係だけの問題です。後者の例が下記のベン図です。この例ならば、「A→B」(Aならば、必ずB)となります。下記の図は、Wikipedia様「ベン図」から拝借しました。Wikipedia様ありがとうございました。


 したがいまして、時間の相の下における二者の「因果妥当性」は、未来に向けては未知の偶然性に左右され、過去に向けては、複数の要因の中から一者を選ぶという論者の志向性に左右される傾向にあります。

 なぜ複数の要因かと言えば、現実世界で生起する事象には、その過去に生起した多数の事象が関連していると考えられるからです。複数あったとしても、当然どれがより影響力の強い要因かという貢献度の差はあるのでしょう。しかし、複数の要因があるため、これまた当然、複数の論者が「~がもっとも影響力が大である」と言い出しますと、結局は、複数の「説明」の間の、説得力の差に帰着することになります。つまり、因果の真偽は、現象の属性自体から自動的に(=論理的に)導き出されるのではなく、複数の言説間の説得力の差によって左右されることになります。

この件、匿名希望 様の、因果性とは「原因→結果」の時間的流れというより、「結果→原因」の時間的遡及ではないか、というご指摘は正しいと私も思います。この件については下記の弊ブログ記事も御参照下さい。
過去の擬似決定性と未来の選択可能性: 本に溺れたい

 位置の相における二者の「論理妥当性」は、その形式的な正しさが厳格に保証される限り、必然でありミクロの範囲では既知領域(トートロジー)ですが、人間の「合理性の限界」のため、マクロの範囲までその形式的正しさを継続できる場合、未知の領域に到達できる場合があります。

「合理性の限界」とは、積み木のように一つ一つ論理のブロックを重ねることは可能だが、ブロックを積み上げた結果の全体像を予め知ることは人間には困難なので、マクロの範囲のことは未知とならざるを得ない、ということ。フロンガスは発明当初、無色、無臭、無毒だったので、ジャンジャン世界中で冷媒として製造・使用したが、大量のフロンガスが大気圏上層のオゾン層に到達するとオゾン(O3)から酸素を奪い、酸素分子(O2)にしてオゾン層を破壊したのが、そのネガティブな一例。

※関連記事。ご参照願います。
決定論と善悪の彼岸: 本に溺れたい

|

« 漱石と近代日本語文体 | トップページ | ラプラスの悪魔 / démon de Laplace / Laplacescher Geist »

知識理論(theory of knowledge)」カテゴリの記事

科学哲学/科学史(philosophy of science)」カテゴリの記事

環境問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 漱石と近代日本語文体 | トップページ | ラプラスの悪魔 / démon de Laplace / Laplacescher Geist »