「どこへ行くの💢」
夕刻、道を歩いていると、前方から3、4歳の男の子と母親が歩いてきました。
すれ違いざまに、男の子が母親の手をはなれ、突然斜め前方に小走りに走り出します。その時、母親の口から洩れた言葉が、「どこへ行くの💢 」で、困惑半分、憮然半分の表情でした。これは街でしばしば見かけるシチュエーションです。
しかし、改めて考えると、この言葉はあまり意味が無いように思われました。
だいたい、そのくらいの幼児たちは、体細胞が日々刻々と増加し、内側からエネルギーが横溢していて、じっとしてなどいられません。だから、自分の中の身体あるいは自然(nature)に任せて無目的に走り出している当人に「どこへ」と尋ねても本人も答えようがない。また、face to face のコミュニケーションであれば、かなり複雑な内容でも母と子ならある程度の疎通が可能でしょう。しかし両者とも同じ方向を向いて言葉のみによるものだと、母親と子といっても相手が幼児の場合、かなり難しい。
無論、母親はそんなことは、先刻承知の助。したがいまして、この言葉は己の身体の一部(⇔こども)への発話ではない。とすれば、自らに向けてのものということになります。では、なぜ、心の中でのつぶやきではなく、音声(=空気振動)にするのか。意味内容としては他者への(無益な)言葉なのに。
こういう、独り言ともいえない独り言は、人が自らのために為す「思い」の 対象(object)化の一つと言えるでしょう。そうすることで誰にも言えない憂さを「確かに私は子どもにムッとしてるな、しょうもない!」と、他者としてもう一人の自分が受容する訳です。こうして日々こころの平衡を保つ。
生物としてのヒトは、地球の歴史四十六億年が結果として生み出したものです(たぶん)。200万を超えると目される生物種のなかで、ヒトが恐らく風変りなのは、同種間のコミュニケーションだけでなく、自己に対しても言葉でコミュニケーションする生き物であり、それが生きるためにどうしても必要な生き物であるという点ではないかと思います。まだ詳細は不明ですが、高等哺乳類であれば、ヒトの言葉に相当するコミュニケーション手段はあるのかも知れません。しかし、ヒトは言葉によってどうしようもなくヒトとなってしまった。そしてそれは不可逆の「進化」だったのだろう、と考えます。それがヒトにとり、幸いだったのか否かはわかりませんが。
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