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2020年2月27日 (木)

密貿易と「開国」、そして「維新」

 先に投稿した記事の中で、驚くべきは、元「金の卵」たちの、子どもの頃はみな裸足だった、という回想です。

鹿児島駅8時38分発 わが心の集団就職列車 - YouTube  ⇒ 17:23 / 46:29 ~18:22 / 46:29

 そんなことが本当にあったのだろうかと思いますが、やはりあったようです。知人で、10年間ほど鹿児島の大学に勤務されていた方から伝え聞いたことです。そちらの大学での先任の老教授から、その方が戦後間もない時期に福岡から鹿児島の大学に着任された際、裸足の子どもがたくさんいて驚いたこと、また、カレーライスを食べようと思ってもそんなものは山形屋(鹿児島市内のデパート)にしかなかった、 という回想を聞いています。

 上記動画は、記録映画をもとにしたドキュメンタリーですが、元の記録映画もそのままYoutube上でみられます。下記。

就職一年生(昭和34年制作) - YouTube

 昭和34年とは、1959年です。知人から紹介された老教授の回顧は、敗戦直後としても昭和20年(1945年)ですから、「戦後復興」は鹿児島の貧しさを14年間素通りしたまま、だったことになります。

 昭和31年版経済白書の結語に後藤誉之助が書いた「もはや戦後ではない」は日本史年表にも記載されるほど人口に膾炙しています。この伝で言えば、鹿児島/薩摩は、「いまだ近代でさえない」が至当だったということになるのでしょう。

 鹿児島/薩摩は、《シラス台地》です。下記は、その小学館日本大百科全書[小山雄生]の記述です。

「シラスが直接地表に露出した所、または再堆積した所につくられた耕地は生産力がきわめて低い。それはシラスがほとんど粘土を含まず、水分と養分の保持力が極端に悪いためである。またシラス台地上の火山灰畑は干魃(かんばつ)を受けやすく、水田は漏水性が大きい。水稲の栽培には適さず、やせた土地でも育つサツマイモ、豆類、アブラナ(ナタネ)などの畑作物の栽培が行われている。」

 鹿児島/薩摩はやせた土地で、とてもとても農業だけでリッチになれる地域ではありません。したがって、豊かな生活を目指すなら、商売かモノづくりか、です。だから、鹿児島/薩摩が生活水準向上を願って、商業や工業を振興しようとするのは合理的です。しかし、オフィシャルにやったことは、満洲移民と同じ、若者たちの実質的な棄民政策だった訳です。

 むしろ不思議なのは、21世紀の最貧国地域である中央アフリカ諸国(ブルンジ、中央アフリカ、ガンビア、コンゴ、ニジェール)に相当するような、鹿児島/薩摩で、19世紀半ばにどうやって「維新軍事クーデター」をやる資金があったのか、です。

 少なくとも、前近代の本州最南端で産業社会化に成功していたという証拠はありません。ではどうやって?

 初期近代にリッチな王国となったのは、植民地大帝国を築いたイベリア半島の、スペイン、ポルトガルです。彼らは、いち早く、奴隷、砂糖、カカオ、といった世界商品の供給販売を一手に握り莫大な富を蓄積します。しかし、その一方で、17/18世紀以降に、その覇権は、アルプス以北の資本主義国、北部ネーデルランド(オランダ)、イングランド(Great Britain島の南部一帯)に移ります。

 その覇権交代のからくりは、イベリア半島両王国は、産業化されていない古いタイプの植民地帝国のままだったのに、アルプス以北の北西ヨーロッパ諸国は人類史上初めて産業化(工業化)を成し遂げられたからだ、というのが教科書的説明です。

 しかし、オランダもイングランドもスペイン・ポルトガルから海外植民地を武力で奪い、自国 ⇔ 南北米大陸/アフリカ ⇔ 欧州の三角貿易で、黒人奴隷や原材料(砂糖・タバコ・カカオ等)を世界商品として莫大な利潤をあげてリッチになった国々であることは既に隠しようもありません。だからこそ、オランダもイングランドも工業化以前に金融帝国になっていたのです。金融帝国化が先で、工業化はその後です。

 ことほど左様に、海外貿易はうまくすれば莫大な利潤を得られます。それを東アジアの規模で実行していたのが、薩摩島津家と長州毛利家です。島津家は琉球をダミー会社とした清国との密貿易、長州は馬関(下関)を舞台にした朝鮮半島/清朝との密貿易です。従いまして、彼らの「家臣団(いわゆる「藩」)」という corporation は、実質的に【王室+東西インド会社】のようなものだったと考えるべきでしょう。

 彼らにとり、「鎖国」こそ巨大な利潤を生む制度的枠組みでした。だから徳川政権下での「開国」に猛反対しました。貿易への他藩の新規参入で彼らの特別利潤がフイになるからです。そして毛利家・島津家家臣団の実権を握る実務層は《藩国家主義》者たちを狂信的な攘夷主義者に仕立て上げ、徳川氏に代わり自ら権力を握ったとたんに、軽業師の身ごなしで「文明開化」へ手の平を返したのです。それはとても〝合理的〟だったことになります。貿易が儲かることを彼らほどよく理解したものは徳川日本にはいなかったはずだからです。

※ここらへんの消息は、下記参照。
宮崎市定「幕末の攘夷論と開国論 ―佐久間象山暗殺の背景―」1976年、所収 宮崎市定『古代大和朝廷』筑摩叢書No.327,1988年、pp.296-310

 こうして、藩corporationを上手に乗っ取ったリーダーたちは、故郷を後に、新都東京に出て、新政府の顕官に登りつめ「元老」となり、故郷は元のまま、という訳ですね。それでいまだに、1人当たり県民所得ランキング(平成28年度)下記の通り。

長州(山口県14位)
薩摩(鹿児島県44位)
土佐(高知県37位)
肥前(佐賀県43位)

 鹿児島/薩摩が、ずっと貧乏県のままなのは、植民地からの上がりを新政府に取り上げられ、以前の《低開発状態》に戻り、元来の土地生産性が反映されたことと、徳川時代でも濃厚に中世的文化を残していたことがネガティブに影響していると考えられます。そもそも密貿易の利潤は薩摩地方の「土民」たちの懐を通らずに、「藩庫」にそのまま蓄積されていたでしょうから、下々には関係のないことだったのでしょうが。薩摩士族が「話が違う」と西南の役を起こさざるを得なかったのも当然と言う気がします。

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