「幻のなき民は滅ぶ」Where there is no vision, the people perish
もし、言葉を操る人々に、辛うじて世に存在する意味があるとするなら、どれほど絶望的な状況においても 、疲れている人々に代わって、幻(vision)を見、伝えることではないか、と思う此の頃です。
もし、言葉を操る人々に、辛うじて世に存在する意味があるとするなら、どれほど絶望的な状況においても 、疲れている人々に代わって、幻(vision)を見、伝えることではないか、と思う此の頃です。
このブログで、コロナ禍の経済/社会への影響に関して、二つの記事を投稿しました。
①コロナ禍と経済循環 plague and economic circulation(2020/03/30)
②歴史実験としてのコロナ禍 Coronavirus shock as a historical experiment(2020/03/31)
20世紀の新儒家・梁漱溟(Liang Shuming)は、仏教徒として青少年期を過し、成人になってから士大夫御用達の儒家に開眼した人物ですが、彼は「仏家は生きるのが苦しい苦しいといい、儒家は生きるのが楽しい楽しいという」点が最も違う、と述べています。
歴史に見るカタストロフは、たいていダラダラと100年ぐらいかかっています。西ローマ帝国の消失もゲルマン人に強襲されたわけでもなく、実質的には平和的な移住地域の浸食/拡大でした。
(1)より
徳川家の大奥が政治的力を持っていた理由ですが、徳川末期、天璋院篤姫の輿入れの経過を見ると一つ判明することがあります。
「大奥の政治力」。この事実そのものについては、これまでのアカデミックな日本近世史学でも触れられる機会は何度となくありました。ただし、改革の反動勢力、あるいは政変に纏わるセックス・スキャンダルとして。
このコロナ疫禍は、少なくとも、21世紀の日本社会を一気かつ根本的に変えてしまう可能性を秘めています。5月になっても、緊急事態宣言がリスケして、なんだかんだで、半年くらい続くなら、これは日本社会全体に、肯定的であれ、否定的であれ、不可逆の変化をもたらすことは動かないと思われます。
バーリンは20世紀の最も重要な政治哲学者の一人です。彼はロシア帝国領下のユダヤ系バルト人として生を享け、ロシア革命の時に家族と共にイングランドに逃れました。多感な少年期に複雑な政治的事情に翻弄されるという人生経験を経て、結果的に後の慎重で、抑制のきいた、深い人間洞察に基づく政治哲学を形成します。
(1)からの続き。
愛と憎しみは、実は同じものです。対象への強い執着という点で。しかし、その表れはまったく逆のベクトルを指し示します。「愛」は、対象との一体化=肯定へと人を導き、「憎」は、対象の拒絶=否定へとひとを駆り立てます。
決定論(determinism)という語があります。非クリスチャンの日本人が気にすることはあまりない、ともいえるのですが、肯定的にも否定的にもクリスチャンであらざるを得ない西欧人にとり、21世紀の現在でも相変わらず悩みの種であり続けています。従いまして「近代化」が「西欧化」でもあった近現代日本人にとっても、他人事と放置するわけにもいかない事情がある訳です。
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