「言葉にできない」と言葉にできる/ You can say "I can't make it into words"
私は、小田和正の名曲「言葉にできない」(1982年)を聞くと、つい突っ込みを入れてしまいます。「言葉にできてるじゃん!」と。
私は、小田和正の名曲「言葉にできない」(1982年)を聞くと、つい突っ込みを入れてしまいます。「言葉にできてるじゃん!」と。
僕は、高校生以来、幾度となく三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年)を読み返してきた。時折、何かの拍子に、脳裏を過(よぎ)るのは、「理性の酩酊」という、三島の泉鏡花評だ。
昔、三島由紀夫が小説とは「理性の酩酊」だと書いていました。
※三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年、p.57)の泉鏡花評。カテゴリー「三島由紀夫: 本に溺れたい」をご参照。
このところ、しつこく種苗法「改正」について本ブログにて取り上げています。ただ、実を言いますと、私の憂慮する点は、農水省が言いたがる、イチゴやメロンなどどいう、高尚な(美味しい、あるいは、儲かる)作物のレベルよりもずっと低いところにあります。こういうと笑われるかもしれませんが、いまや「死語」である救荒作物のことです。
徳川慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に没しました。享年76歳。1868年の時点で、彼は31歳ででした。すると、不本意ながら人生の過半を、明治コンスティテューション(Meiji constitution)下で彼は過ごしたことになります。さて、そうすると、慶喜は江戸人なのでしょうか、それとも明治人なのでしょうか。
ひとは、善と悪、ともに選び得る。そこに人間が自由とともにこの「世界」に生まれでる存在的根拠がある。これが人間というものに対する私の基本的考え方です。このことは、すでに弊ブログ記事上でも折に触れて言明しました。
村上春樹『猫を棄てる ― 父親について語るとき』文藝春秋2020/04/25刊、102頁
ずっと前に、古本屋でしばらく働いていたことがある。だから、商品として村上春樹を買ったり、売ったりした。
私は、よりによって「桃の節供」(三月三日)に、「PMアベは Constitution(国制)を改変できない」というあまり気分が良くならない記事を書きました。本日、憲法記念日ですので、改めて、この記事を宣伝するために投稿します。ご笑覧頂きたくお願い申し上げます。
「現実 reality」は、実は言説によって構成されます。なぜなら、ヒト以外の動物は、「身体」を進化させ、その「身体」にピッタリ fit した「世界」で生き延び暮らしていますが、ヒトはある時点から「身体」の進化を停止し、そのかわり言説によって構成された「世界」を構築し、その「世界」を進化させることで生き延びてきているからです。
コロナ禍の喧噪の裏で、日本のただでさえ脆弱な「農」と食料安全保障を、危機的な状況に陥れる法案がアベ政権によって国会に提出されています。種苗法改正案です。
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