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2020年5月10日 (日)

国語として、あるいは政治としての「文学」/ Literature as a national language or politics

 昔、三島由紀夫が小説とは「理性の酩酊」だと書いていました。

三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年、p.57)の泉鏡花評。カテゴリー「三島由紀夫: 本に溺れたい」をご参照。

 言語操作は明確に意志的、理性的な行為にも関わらず、その言語操作で創り出した世界に、ひとの理性/情念未分離の「こころ」を活写し、読み手は、文字を読むというロゴス的な手続きを経て、ロゴスの先にある不定形なある「もの/こと」を感取する。そういう力能が「文学」にあります。

 おそらく、文字以外のコミュニケーション・メディア、演劇、舞踊、音楽、スポーツ、武道、儀式、政治、といった身体表現メディアであれば、そもそも言葉と異なるチャンネルを使うので、理性/情念未分離の宇宙を創造可能なのでしょう。しかしそれらは、創作したはしから、テンポラリーに消えていき、現場の共有者たちだけが感得できる五感的世界となってしまう。したがって、理性を吹き飛ばされる感覚、ロゴスを超出する体験を得ても、その場その時を後にしてそこから空間的、時間的に退いてしまえば、旧態依然たる日常感覚に復してしまいます。

 そういう意味でいえば、文字で残る文学だけが、ロゴスに則りながら、ロゴスを超える可能性を持つ、のかもしれません。人間という存在の「わからなさ」「不気味さ」の証明の痕跡、ようなものが文学の「意味」なのか。文学が基本的に「読め」ない私にとって、文学は今でも、いつまでも「謎」です。

 こういう私が、中学、高校と最も忌み嫌っていたのは、「国語」のペーパーテストでした。なんで好き好んで、問題作成者の意図や心理を「忖度」しなければならないのか、と。当時の教員は変人が多かったので、国語科は嫌いではありませんでしたが。

 その頃から半世紀近く経過しようとしていますが、いまでも模試や入試は同じ感覚で作成提供されています。「文学」なんていうヤバいものを健全な青少年を screening するために加工する、という滅茶苦茶なことをするにはそうならざるを得ないとは思いますが、わざわざ original の「やつし」(それも自分レベルの)を量産し、問題作成者は「こころ」が痛まないのか?、という疑念に絶えずつきまとわれます。ぼやいてみても詮無いことですが。

 「政治」と「文学」を意図的に分離しようとしたのは、西欧に「literature」という fiction が成立して、それを教育機関で Teachingするという体制が成立して以降です。「小説」が大衆の消費財として大量生産されたときと軌を一にしているのでしょう。

 古代・中世、「政治」と「文学」は、知識人/読書人にとり別の事柄ではありませんでした。それが現代でも健在なのは中国です。「文」とは「志」を表現するもの、という「当り前」で三千年近くやっている訳ですから、そうやすやすと「近代化」なぞに飲み込まれる訳がない。

 おそらく、中国人における20世紀最高の詩人は毛沢東です。少なくとも彼は言葉を操る天才でした。「反面教師」「人海戦術」。現代日本人でさえ、ふと口について出るこれらの言葉は、「言葉の魔術師」毛沢東の original です。現代中国人がいまでも、「大躍進」「文化大革命」といった歴史的災厄をもたらしたこの「独裁者」を否定しきれないのは、彼の言葉の否定しようもない「力」のためです。幸い、日本には災厄レベルの「言葉の巨人」が出現することはなさそうです。せいぜい、頭が悪いアベが「国難」「国難」と騒いでいるのは、不幸中の幸いというべきなのかも知れません。

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