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2020年5月 4日 (月)

「悪」の存在確率/probability of evil

 ひとは、善と悪、ともに選び得る。そこに人間が自由とともにこの「世界」に生まれでる存在的根拠がある。これが人間というものに対する私の基本的考え方です。このことは、すでに弊ブログ記事上でも折に触れて言明しました。

 人間以外の生物に「善/悪」はないのでしょう、おそらく。強いて言うなら、「生きる」ことが「善」で、「死ぬ」ことが「悪」でしょうが、それを問うても詮無いことです。西欧中世では《動物裁判》というものがあったようですが、ひと以外のものをひとの枠組みに入れなければ気が済まない西欧人の obsession のなせる業です。日本人とは逆の mentality であるようです。

 したがいまして、どなたにも、つまり私にも、このサイト記事を読んでいただいている方(例えばあなたにおかれても)可能性としての「善」と「悪」は常に存在します。

 そこで仮想実験をしてみます。人間における「悪」の確率です。世の中、仮に「悪」で満ちているなら、おそらくひとは生存出来ていなかったでしょうし、私自身を内省してみても、しょっちゅう「悪」を考えたり、行っていたりはさすがにしていない(と思います)。だから比率的には「善」>「悪」なのだと推論できます。どなたも一応、日常生活は無事に過ごせているでしょうから(コロナ禍のような事態はまた別)、人間存在のほとんどは善的なものなのだろう、とさらに進めます。そうすると、「悪」を観念する/想像する段階の確率を1%とし、それを実践してしまう確率をさらにその1%としてみます。

 一人の人間の中に、「悪」を観念してしまう確率が1%あり、それを実現してしまう確率がさらにその1%あるとするならば、人間集団全体では、それに見合う事態が起きていると推論しても不合理ではなさそうです。例示的に、実際に警察庁の犯罪統計を見てみましょう。

統計特-2 人口10万人当たりの主要罪種別犯罪率の推移(平成25~29年)
    25 26 27 28 29 平均  
総人口(千人) 127,298 127,083 127,095 126,933 126,706  
刑法犯総数 1,032.3 953.8 864.7 784.8 722.2 872 0.9%
凶悪犯総数 5.3 5.1 4.4 4.0 3.8 5 0.57%
  殺人 0.7 0.8 0.7 0.7 0.7    
  強盗 2.6 2.4 1.9 1.8 1.5    
  放火 0.9 0.9 0.9 0.7 0.8    
  強制性交等 1.1 1.0 0.9 0.8 0.9    
粗暴犯総数 52.2 51.8 50.4 48.9 47.4    
  凶器準備集合 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0    
暴行 24.8 25.5 25.6 25.1 24.5    
傷害 21.9 21.0 19.8 19.2 18.4    
脅迫 2.7 2.9 2.9 2.9 3.0    
恐喝 2.8 2.4 2.1 1.7 1.5    
窃盗犯総数 770.8 706.0 635.4 569.7 517.3    
知能犯総数 33.9 36.2 34.3 36.1 37.1    
                 
注1:総人口は、各年10月1日現在の総務省推計人口である。
  2:犯罪率は、人口に対する認知件数の割合をいい、算式は次による。
  認知件数 ×100            
  人口(千人)            

 


犯罪率とは、分母が〔人〕、分子が〔件数〕なので、百分率(無名数)で表すのも変なのですが、そこは目をつぶり、「悪」の代理変数として、その発生確率として扱います。

 すると、先ほどの想定、ひと一人の中に、悪を観念する確率が1%、それを実践してしまう確率が1%と平仄が見合っていそうです。

 とまあ、ここまではこじつけのこじつけであるわけですが、大事な帰結はこうです。

 ひとがある集団で暮らす世の中では、一定の頻度で犯罪、凶悪犯罪が起きる。犯罪や不徳行為は、この列島史における昭和前期の警察国家、治安維持法下でも起きたし、秘密警察が大活躍したかつての東側共産主義国家でも根絶されていた訳ではない。逆に言えば、どれほど(相対的に)素晴らしく運営されている国家でも、必ず「悪」は存在し得る、という人間的事実です。ひとが「自由」であるということは、「善」と「悪」への可能性に常に開かれているということであり、そのことは、いかなる時代、いかなる国でも、ひとは己(や他人の)の「悪」と共存することを余儀なくされる。それが「人間」という不完全な生き物のあり様なのだ。これです。

 したがって、「悪」の存在に絶望する必要もありませんし、「悪」を矯め、「善」を伸ばすことを諦めるには及びません。その時、その場所の特質に応じて、「悪」を小さくし、「善」を増やす工夫を一つ一つ重ねていくだけでしょう。ただ、ひとの歴史を振り返ると、「大善」と「大悪」は真逆というより表裏の相対位置にあることがしばしば、との感慨を持ちます。「大善」に見えるものや、「大善」を主張して恬として恥いる風でない人物には十分な注意が必要であると思われます。

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