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2020年6月12日 (金)

塩沢由典『増補 複雑系経済学入門』2020年5月ちくま学芸文庫(2)

(1)より (3)

 本書の内容は、著者によって4部構成になっています。第1部 なぜ、複雑系経済学か、第2部 科学知のパラダイム転換、第3部 合理性の限界とその帰結、第4部 自己組織する複雑系、の4部です。そして今回の増補部分である、補章『複雑系経済学入門』以後の二〇年、で5つのセクションとなります。私もこれに則り書評を試みることとします。

◆書評1「天上の経済学」の長期衰弱の道ゆき

 本節では、「第1部 なぜ、複雑系経済学か」を論評します。

◆◆第1章行き詰まった経済学
 この章では、大学や教科書で教えられている経済学が、千両役者を演じてきた北米合衆国においてその像がどのように変貌してきたのか、が描写されます。それにしても、なぜ「USA」なのでしょうか。

 統計データを確認したわけではありませんが、おそらく日本の旧帝国大学系、有力私学系の理論経済学コースであれば、現在、その教員スタッフの、最低でも五割、最大なら九割は、北米の大学のPhD保有者です。分かりやすく言うなら、東大、京大、の経済学の先生は殆ど北米の大学院経済学博士号所有者なのです。それが「経済学を教える免許証」となっているぐらい、現代の経済学では北米の影響力が決定的だということです。ただし、この「惨状」はべつに島国日本に限定されません。欧州でも似たようなものです(欧州ではさすがにOxbridge, LSEもシェアがあるようですが、それとても Neoclassicalであることは不変)。ロックフェラー財団等の非常に充実した奨学金システムの存在は、中進国や開発途上国であればなおさら、PhDを取得させるために若手エリートを北米に送り込む仕組みになりやすいでしょう。こうして米国経済学の国際的アカデミズム支配が完成します。

 むしろ不可思議なのは、米国人は「地上」と何のかかわりもない「天上」の経済学をなぜ「必要」としてきたのか、のほうでしょう。「効用関数が服を着て歩いているのが米国人」という評も含めて、これは北米の知性史的問題、あるいは米国人の精神分析上の問題なのだと思います。言わば Max Weber 的な ethos の問題ですから、これについては別途に論じることにします。

この件は、「機会費用 opportunity cost」とは何か: 本に溺れたい、も参照。

◆◆第2章計画経済の失敗が教えるもの
 この章では、既に三十年前に「地上」から雲散霧消してしまった旧ソ連邦における「計画経済」の挑戦と敗退の歴史を取り上げています。第一部で評者の関心を最も引いたのはこれです。評者は「人類史における近代 modernity の意味」という課題に継続した関心を持っています。そのため、「西欧近代」と「(日本)列島における近代」の比較史が常に念頭にあるのですが、その視角の一つが、「ロシア社会主義計画経済思想」と「昭和統制経済思想」の比較です。一国経済は制御可能である、という「制御の思想」(本書p.81)は、日本近代史で言えば、日中戦争期(1937年)前後からドッジライン(1949年)前後まで敗戦を挟んで約15年間、知識人の常識的経済思潮でした※1。近代日本人は実は「計画」大好き人種なのです。※2

※1戦前に、ミーゼスを踏まえて「制御の思想」を批判した文献。
山本勝市著『経済計算 計画経済の基本問題』昭和7(1932)年千倉書房
山本勝市著『計画経済の根本問題 経済計算の可能性に関する吟味』昭和14(1939)年理想社出版部
山本勝市著『計画経済批判』昭和16(1941)年理想社(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション公開PDF)

※2戦後日本で「 社会主義経済」を批判的な観点から一貫して研究され、冷戦終結後まもなく、この「経済計算論争」を先駆的に再検証したのは、故吉田靖彦氏(1922-2009)です。現在では、PDFの形式で、ネット上からフリーで下記の論文が入手可能です(下記、吉田論文リンクはすべて「J-Stage」サイト経由)故吉田氏はまた、Don LavoieMurry Rothbard の大著も訳出されています。
1)吉田靖彦「社会主義経済計算論争再考」(1991)ソ連・東欧学会年報、第20号、P.52-61
2)吉田靖彦「社会主義経済計算論争の再検討」(1993)ソ連・東欧学会年報、第22号、P.76-83
3)吉田靖彦「社会主義経済計算論争の発展」(1997)ロシア・東欧学会年報、第26号、P.91-101 ※3
4)吉田靖彦「社会主義経済計算論争の展望、分裂か収束か」(1999)ロシア・東欧学会年報、第28号、P.155-165

※3 この吉田氏論文に、Mises, Human Action, 1966 から興味深い引用がありました。原典から引き直してみます(下記)。

 下記の文からしますと、Mises は 、どうも
    entrepreneurship(企業家精神) > management (経営者能力)
と考えてるようです。前者は creative action だが、後者は routine work だということなのでしょう。ここには、一つの企業の routine な management においてでさえ、個人には手に負えない「複雑さ」が潜んでいるからこそ、「企業 corporation」という分権的な階層組織(hierarchy) が必要とされている、という認識が残念ながら欠落していると言わざるを得ません。また、Mises が理論的に要請する(仮定する) evenly rotating economy において形成される価格、つまり定常循環経済において形成される(最小)生産価格体系が、
実は「合理性の限界下(under bounded rationality)にある諸個人が任意に経済活動する複雑な経済系において成立、形成、維持される「驚き」がちょっとなさそうです。この「複雑さ」に対する一種の感度の鈍さ、が Hayek をして Mises と袂を分かつ遠因になった可能性はあります。
 ちなみに、この Mises, Human Action ですが、某ネット書店の古書価がベラボウなことになっていますが、翻訳ならいざ知らず英語版であれば、下記にも引用した、Mises Institute 発行の下記の edition を free でD/L可能ですので、購入するかどうかは落ち着いて検討されることが宜しいかと老婆心(老爺心?)ながら付言しておきます。すぐ下のリンクがそれです。
Human Action | Mises Institute

Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics, the scholars ed.
LUDWIG VON MISES INSTITUTE, AUBURN, ALABAMA, 1998. p.704

Those who confunise entrepreneurship and management close their eyes to the economic problem. In labor disputes the parties are not management and labor, but entrepreneurship (or capital) and the salaried and wage-receiving employees. The capitalist system is not a managerial system; it is an entrepreneurial system.

「起業家精神と経営を混乱させる人々は、経済問題に目を閉じています。労働争議では、当事者は管理と労働ではなく、起業家精神(または資本)と給与と賃金を受け取る従業員です。資本主義システムは管理システムではありません。それは起業家的なシステムです。」


 またこの問題には、マルクス主義に見え隠れするプラトニズム(知の独占、あるいは知識による支配)を指摘することも可能でしょう。「お前のことは、お前以上に俺が知っている。悪いようにはしないから、安心して俺に任せろ。」と言う訳です。

 こうも言えるかも知れません。ひとの認知能力には一定の限界がある。一度に認知できる知識量には限りがある。例えば地図なら、人間が両目で追いかける事が可能なのは、範囲として1m×1m くらいでしょう。今この地図に描かれている内容は、ある観光地の街並みだとします。観光地を歩くのならそれでよろしい。次に、例えばスイスがいったい幾つの国に囲まれていたか知りたい。それなら、学校地図帳にあるくらいの大きな縮尺でないと、1m×1mに入りきれない。街を歩くなら、それにふさわしい縮尺で、詳細度を高くして、描かれる範囲を小さくする。一方、国と国の国境線の長さを確認したいなら、それにあった縮尺で、詳細度を小さくして、描かれる範囲を地球大にする。詳細度をあげたいなら、そこに描かれる範囲は小さくなる。逆に国々を指先ぐらいにすれば、一定の地図に地球全体を描くこともできる。知識は抽象度をあげれば、一人の人間が宇宙全体をあたかも見晴るかすことが可能だが、家から駅までの近道、などという卑近な知識はグッと抽象度を下げた特定の場所と時間に関係する具体的な知識となる。ひとりの人間の身体に制約される認知能力には、ほぼ万人に均等なキャパシティの限界があり、巨視的かつ抽象的な知識か、微視的かつ具象的な知識の間のグラデーションの違いとなる。巨視的で詳細/具体的な知識はひとりの人間の中に同時に共存できない。従って、国家統計官は具体的でテンポラリーな現場の知識に立ち入ることができない。現場の知識はその現場に習熟している現場の人間に任せるしかない。

 そういう意味で知識は分散的にしか存在できず、原理的に集中化できない実在的条件であり、知識も分業で処理することが最も実行可能(feasible)な処理方法となる、と言えることになります。いわば、複雑な経済系では、「知の巨人」は存在する余地は無く、理論的に democratic な特質を持たざるを得ない、という言い方もできます。

※下記、弊ブログ記事も参照。
組織における世界像分業: 本に溺れたい
小さな知識と大きな知識: 本に溺れたい
知の縮尺: 本に溺れたい

◆◆第3章新古典派経済学批判
 この章は、新古典派経済学の二つの方法的核心に対する批判です。一つは「最適化原理」、他の一つは「均衡」概念です。合理性の限界、あるいは計算量の組合せ爆発による前者の否定と、需給均衡論による理論の落とし穴については、わかりやすい批判ですし、後の章で再論する機会がありますので、ここでは取り上げません。それよりも、ここでは、補足的注意1(p.105)に注目しておきます。最適値計算と近似値計算の近さ、最適解と近似解の似て非なること、のために、最適化原理に対するセカンドベストとして近似計算を持ち出すことが原理的に不可能な事が解説されています。こういう説明は他所であまり見かけませんので、貴重で重要な、注意すべき指摘です。

 少し、長くなりましたので、第2部、次回となります。

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