塩沢由典『増補 複雑系経済学入門』2020年5月ちくま学芸文庫(4)
◆◆第7章複雑系経済学の構想
本章で重要なトピックスは、「人間能力の三つの限界」、「経済の総過程と基本的定常性」、「ミクロ・マクロ・ループ」、「逸脱増幅的相互因果過程」の四つです。
「人間能力の三つの限界」とは、
①視野の限界
②合理性の限界
③働きかけの限界
の三つです。
①は「情報獲得能力の限界」とも言い換えられています。しかし、こう反論される方もいらっしゃるかも知れません。
「現代はPC、タブレット、スマートフォンを始めとした情報機器と、インターネットという情報通信環境の劇的な技術進歩により、それまでは存在したかもしれない人類にとっての視野の限界は、この半世紀で、ほぼ克服されたのではないか」と。
確かに、人間ひとりが手許に取り寄せることができる情報量は20世紀半ばと21世紀初頭の今日では懸絶しています。しかし、仮に、目の前にPCのディスプレイが8台あっても、ネット配信される音源が8つあっても、あるいは、部下が8名いてその8名が一斉に業務報告を始めたとしても、それらに向かあう、ひとりの人間(意思決定者)の身体的リソースは何万年も前から同じです。多量/多次元の情報を並列処理する人間側の身体的リソースは存在しません。どうしてもそれらを均等に処理しなければならないなら、逐次的(sequential)に処理しなければなりませんし、あるいは同時に、それらの情報を何らかの手順で指標(指数)化し、次元低下させ情報の詳細度を著しく薄くしなければならないでしょう。つまり、テクノロジーによって①が克服可能あるいは既に克服済み、という評価は浅薄であり、これは社会主義計画経済における「コンピュートピア」の幻想と同じ程度に非現実的と言わなければならないわけです。現代人が情報テクノロジーの高度化ゆえに、むしろ情報の洪水、情報過多に翻弄され、かえって偏った、あるいは少数の情報源で判断している、実質的な情報の重み付け weighting の実態がそのまま、人間の「視野の限界」を露呈しているのです。※
※渡辺慧が情報科学の哲学の草分けであるにも関わらず、「計算量の限界」を主題にしていないように見えるのは、そもそも彼の「パタン認識」の議論が「次元低下」、「情報の価値的重み付け」という「計算量負荷の削減」を実質的に内包していたという論点も与って力があったと考えられるでしょう。
②は、本書pp.99-102第1部第3章の「計算量の理論とNP困難な問題」の項で一足早く論じられています。ここでは改めて、「合理性の限界とは計算能力・思考能力の限界」(本書p.223)とも言い換えられています。この論点は、複雑系に関する塩沢理論の戦略的な最重要拠点であると評価できます。複雑系の塩沢理論において、これのみが重要な論点ではないのですが、この理論の重要性を数学の外の世界、とりわけ社会科学の世界に明示的に導入したパイオニアは本著者であり、人々の耳目を驚かせ説得する言説として最も効果が高いと言えるからです。また例えば、これまでの政治学における民主主義理論や社会学での「意図せざる帰結」等の理論的基礎を一部根本的に書き換える衝撃があるはずです。※ただし、当の理論経済学においてもその浸透に四半世紀以上かかっていますから、いまだ少し時間がかかるかも知れません。
※行政学、公共政策学における意思決定理論/予算編成理論である、インクリメンタリズム(ncrementalism=増分主義、漸進主義)は、実務の現場において踏襲されてきた予算編成手法で、それを実証的に取り上げ、理論化したものです。この議論は、新古典派経済学のメンタリティと同一の合理的-包括的決定の理論(rational-comprehensive approach)の批判にさらされると理論的に分が悪いものでした。しかし、この複雑系の塩沢理論による新古典派経済学方法論への根本的批判の登場で、内在的にその合理性、理論整合性を弁証することが可能となっています。これは社会科学に胚胎する「合理性」概念がいかに危ういものであるかを良く示す事例となっています。下記、弊ブログ記事をご参照頂ければ幸甚です。
インクリメンタリズムと合理性の限界( Incrementalism under bounded rationality ): 本に溺れたい
今後、②はむしろ人文学、とくに理論哲学の分野に新生面を開く論拠となり得ます。「理性の限界」をカントに倣って思弁的に論じてきた哲学者たちに、それを《手に取って》「計量」する手段を与えることを意味するからです。これはまた、彼らに「有限性」を理論化することが、「無限性」を理論化することより遥かに困難であることを思い知らせることなります。今回のコロナ禍の直前まで、「AI」やら「シンギュラリティ singularity」に浮足立っていた哲学者たちへの頂門の一針です。「理学的」哲学から「工学的」哲学へ、とも言い換えてもよいでしょう。
③は、「人間能力の三つの限界」のなかでは、著者の論じ方が少し軽いようです。というのも、それは「経済学で古くから考慮されてきたもの」(本書p.224)という判断があるからでしょう。しかし、私は③の論点は理論的にかなり深刻な問題を社会科学に投げかけているように思います。
〔次回へこの項、続く〕
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