関 曠野『プラトンと資本主義』(1982)の、著者自身による要約(1996)
関 曠野『プラトンと資本主義』1996年改訂新版/北斗出版、pp.429-32「改訂新版へのあとがき」より引用
※ Seki Hirono, Plato and Capitalism (1982), summarized by the author (1996): 本に溺れたい
かつてマックス・ウェーバーは近代資本主義の〈精神〉を形成したのはブロテスタンティズムの倫理であると述べたが、本書はこのウェーバーの有名なテーゼにささやかな仮説をつけ加えるにすぎない。近代資本主義の精神を特徴づけるものは自己目的的な富のための富の追求であり、そうした目的に即して資本を投資し蓄積するために現在における生の享受を断念する現世内禁欲の習慣である。そしてウェーバーの見解によれば、この精神の起源はブロテスタンティズムに固有の倫理にあり、その原型は中世西欧の修道院の生活と労働の在り方に見出される。晩年のウェーバーはさらにこの精神のはるかな源流を求めて一たん古代ユダヤ教にまで遡り、そこから原始キリスト教に向う予定だった。キリスト教と資本主義の関係は、彼の生涯をかけたテーマだったと言える。だがウェーバーは、キリスト教は純粋に信仰の問題であるというルターの言葉を真に受けすぎていたように思われる。古代教会以来のその神学という観点からみれぱ、キリスト教は古代ユダヤ教ではなくプラトン以来のギリシア哲学の後継者なのである。そして資本主義の精神の起源という問題を解く鍵も、ここにある。
資本主義的な富のための富の追求の原型は、実はプラトンの「知への愛」Philo-Sophia、すなわち知のための知を熱愛し追い求める企てとしての哲学の中にある。「知への愛」という言葉からも分るように、プラトンか提出したのは一つの欲望についての理論であり弁証であった。この欲望の対象は自分に欠如している純粋に抽象的な知であり、肉体と欲望の対極にあるこの知を獲得した人間は、肉体の有限性を超越して不死なる存在になる。そしてエロスなるものは本来、不死性への欲望のことなのだから、プラトン哲学を支配しているものは欲望することそれ自体への自己回帰的な欲望である。この欲望は原理的に無限であって、限界としての他者を知らない。ゆえにプラトン的エロスとは、本質的に貨幣への欲望なのである。というのも一切の欲望を充たしてくれる貨幣という抽象への欲望は、欲望充足の抽象的一般的な可能性それ自体を欲望することであり、また資本主義的な冨のための富の追求を可能にしているのは、貨幣に内在する純粋に抽象的かつ量的な性格だからである。こうしてプラトンのイデア論に始まるヨーロッパのロゴスの発端には、貨幣の抽象的な可能性に規定された特殊な欲望がある。ロゴスの形而上学は、その根本においては資本主義的な貨幣使用の理論以外の何ものでもない。
しかし言うまでもなく、哲学者プラトン本人は資本家でも経済学者でもなかった。プラトンの重要性は、その貨幣使用の理論に適合する倫理と法を作りあげたことにあり、それが中世の修道院とブロテスタンティズムを介して後の西欧における資本主義の興隆を準備することになったのである。ちなみにウェーバーも資本主義に適合する法や生産と経営の方法の歴史的起源を問題にしたが、それらの共通の起源を突きとめることはできなかった。しかしながらプラトンの著作を先入見ぬきに読んでみれば、そのロゴスにおいて人間的動機(倫理)、法、生産と経営の方法の三者が資本主義的な貨幣使用の論理に即して統一されていること明々白々なのである。ただしプラトンのテキストをそのように読解するためには、プラトンと哲学をめぐる伝統的な先入見をまとめて排除しなければならない。そのためにはまず、ギリシアのポリスとローマ帝国の世界を強引にハイフンでつないだ「ギリシャ=ローマ」という概念を解体すると共に、プラトンは古代ギリシアを代表するどころかポリスの世界に対する敵意ゆえにローマの貴族層によって歓迎された思想家であることを認めねぱならない。そしてプラトンの最大の関心事はソフィストに対抗する法思想の形成にあり、彼が自分の理想国から詩人を追放したのもソフィストの先祖であるギリシアの詩人が法の語り手だったからだということを認めなければならない。そのためには私はギリシア史をホメロスから説き起さざるをえず、それが本書が大著になってしまった理由なのである。
ところで本書の第三章を読まれた方なら気づくように、私は経済(市場)、法(法廷)、文化(劇場)の三者はそれぞれ固有の次元をもつ相互に独立した実在とみなしており、経済決定論を斥けている。そして経済決定論を斥け歴史における人間の創意を重視する立場をとるならば、プラトンが貨幣の論理に適合する法と文化を構想したことはそれだけ重要性を帯びてくる。アテナイの民主革命によって失権した貴族プラトンは、一つの個人的な復讐としてそうした法と文化を構想した。彼にとっては市場とは民主主義の勝利をもたらしたおぞましい制度だったが、彼は市場を否定するのではなく― 哲人王として ― 市場を征服することによって祖国アテナイに復讐しようとした。こうして彼は、ポリスの世界を支配する市場の論理を自明の前提として受け入れたうえで、市場がもたらす絶えざる変動にもかかわらず常に己れに対し同一なるものに留まり存続しつづけるような組織およびそうした組織を可能とする法と文化を構想したのである。そして彼の構想から生まれた架空の国家は、絶対知という名の貨幣のエロス的追求によって不死なる者になろうとするプラトン哲学における〈主体〉の存り方が、国家の存り方に投影され拡大されたものにほかならない。この〈主体〉は「魂の自分自身との対話」(「パイドロス」)を契機として生じ、魂とその墓場である肉体、すなわち貨幣を絶対的に所有することへの欲望と肉体の有限性の間で引き裂かれている。これと同様にプラトンの国家も、所有することへの抽象的な欲望だけを原則として組織されている。
そしてこのプラトンの国家こそ、資本主義的な企業組織の原型なのである。この種の企業組織の本質は、市場における一切の変動に抗して己れに同一に留まりつづける不死の存在たることであり、不死なるものとして存続するために企業は市場を征服しなければならない。プラトンは、貨幣の所有と蓄積によってその成員の生死をこえて存続する不死なる組織、すなわち法人の理論を提出したのであり、イデア論の必然的帰結であるこの法人の理論を母胎として近代の国家や企業が出現した。しかし彼は何のモデルもなしに法人の理論を無から作り出した訳ではない。絶えざる変動と危機の中に在りながらその成員の生死をこえて存続する組織のモデルは、軍隊にあり、プラトンの場合は軍事国家スパルタがその念頭におかれている。だから資本主義的な国家と企業の原型は軍隊であると言わねばならない。この事実は歴史的にも検証できる。プラトンの著作は軍事国家ローマの貴族層の知的資源となり、ついでローマ教会は、プラトン哲学とローマ軍の組織の双方をローマ帝国から継承した。そしてヨーロッパの国家と企業はこの神の軍隊としての教会と修道院の組織から多くの示唆をうけながら発展してきたのである。
ところで九十年代初めにソ連邦が崩壊して以来、資本主義と市場経済一般を単純に同一視する言辞が、我々の周囲を大手をふってまかり通っている。この見解は完全に間違いであり、国家統制経済を「社会主義」と称したマルクス=レーニン主義のとんでもないドグマをこれ見よがしに裏返しにしただけのものにすぎない。資本主義的でない市場経済のモデルはいくらでも考えられるし、また資本土義諸国の現状においても利潤の追求と資本蓄積を至上目的としない経済活動が国民経済のかなりの部分を占めている。資本主義を特徴づけているのは、市場経済一般ではなく「工場」の制度であり、工場と企業の論理を定式化したという点においてプラトンは史上最初の資本主義のイデオローグなのである。工場における軍隊的に指揮され管理された生産という問題こそ、すでにマルクス主義の死が明白だった八十年代半ばに私があえて資本主義を主題とした本書を書いた理由でもある。本書において私はマルクスではなくウェーバーを導きの糸としており、マルクス主義者の歴史観その他をまとめて斥けている。しかし私にとってはかつても今も、資本主義は批判さるべきものである。というのも資本主義の歴史には戦争と軍隊が深く絡み合っており、その本質には暴力の要素が内在していると考えざるをえないからである。資本主義と暴力という問題を考察するうえでは、マルクス主義の安直な経済決定論はむしろ障害でしかない。プラトン哲学の解体作業はこの問題を根本的に再考するための出発点だった。そして資本主義の本質には暴力が内在しているという私の見解が正しいならば、資本主義と民主主義は相い容れない筈である。これが私があえて時流に逆らって本書を書いた理由なのである。
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