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2020年9月23日 (水)

西村玲氏(2016年ご逝去)を追悼いたします/ In memory of Ms. Ryo Nishimura (died in 2016)

 以下、遅ればせの追悼記事です。

 他所様のブログ記事コメント欄より、「西村玲」という方の名を初めて知りました。すぐ思い当たりましたのは、弊ブログ記事「末木文美士『近世の仏教 華ひらく思想と文化』吉川弘文館2010年(後編)」への、無署名コメント(2011年10月23日 (日) 12時13分)です。以下、その全文を再掲いたします。

「近世仏教が専門の思想史研究者です。仰る通りと思います。こうしたことを、従前より考えておりまして、今、始めているところです。
 通説の思想史はあまりに遅れており、書かれておられるように、「儒学が近代化」と丸山眞男のオウム返しをいまだ疑問無く言っている状況ですので、現実にはなかなかしんどいところですが。もう彼らが意味のある何かを社会に提出することは、ムリだと思っています。
 ともあれ、粛々と進めます。誰でも、普通に考えれば、同じことを思うのだ、と励まされて嬉しかったです。お礼まで。」

 2011年10月以降、上記と同一人物らしき方からのコメントは弊ブログにはありませんでした。研究成果は公表されたのかしらん?と思っていましたところ、他所様ブログのコメント氏(睡り葦様)のご教示で卒然と思い起こした次第です。

 急いで、西村玲氏に関して検索し、下記の二つのネット記事を発見しました。

「役に立たない学問」を学んでしまった人文系“ワープア博士”を救うには……? | 文春オンライン

森 新之介 (Shin'nosuke MORI) - 研究ブログ - researchmap「西村玲氏と『西村玲遺稿拾遺』」

の2件です。とりわけ、②を読み、また弊ブログ記事コメント中の、

「現実にはなかなかしんどいところです」
「励まされて嬉しかったです。お礼まで。」

との記述を改めて読み、おそらく上記のコメント主は、西村玲氏ではないか、との思いを強くしました。

 全共闘闘争終結後、真っ当な人間は大学から自ら出、あるいは追放され、残ったのはイエスマンばかり、とは仄聞してはおりました。その半世紀後においても、西村玲氏のように、学的能力、志操ともに優れた人物が日本の大学でtenureを得られず、自殺に追い込まれている。半世紀を越えて、「おまえは既に死んでいる」(byケンシロウ)状態の日本アカデミズムは、ゾンビ、Walking Deadと言うことなのでしょうか。言葉を失います。

 西村玲氏のご冥福をお祈り申し上げます。

〔故西村玲氏ご著訳書〕
近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践(2008年5月2日)トランスビュー、単著
日本をつくった名僧一〇〇人(2012年9月27日)平凡社、共著
自然と人為――「自然」観の変容 (岩波講座 日本の思想 第四巻)(2013年8月24日)岩波書店、共著
中国仏教と生活禅(2017年2月1日)山喜房佛書林、共訳
近世仏教論(2018年2月10日)法藏館、単著
東洋哲学の構造――エラノス会議講演集 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)2019年3月23日慶應義塾大学出版会、共訳

 

〔関連弊ブログ記事〕

1)「縁」と社会/ Nidana [fate] and society : 本に溺れたい
2)文科省の大学院政策における失敗/ Failure in MEXT's graduate school policy: 本に溺れたい

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コメント

塩沢先生
コメントありがとうございます。

>量産される博士号取得者がなぜ必要なのか、その点に関する社会の合意・理解なしに政策を進めてしまったことの結末です。

この点、大事なご指摘だと思います。先生の最近著『増補複雑系経済学入門』2020年ちくま学芸文庫、pp.410-1、にて、コンテナ輸送が社会全体の効率性改善に役立つのは、マテリアルな設備よりも、規格化/標準化などの社会工学技術に負う点を、旧版以来20年以上にわたって注意喚起されています。「日本はこの方面があまり得意とはいえません。」とも(p.411)。そういう弱点が、文科省の政策的業績づくりの独走(独善?)および新自由主義的「競争至上主義」イデオロギーの奇妙なアマルガムと混淆して、今回のような陰鬱な悲劇を中期的に帰結したのです。無論、文科省役人の現場乱入・攪乱は、文系だけでなく理系にも及んでいます。
既に弊ブログでも十年近くまえに紹介済みですが、
自滅する生命科学:研究資金配分が誘導する研究コミュニティの崩壊: 読書の記録
https://satoshi8812.at.webry.info/201211/article_2.html
の証言をみますと、理系アカデミズムの現場でも「着実に」病気は進行してます。21世紀になり毎年のように「ノーベル賞」日本人受賞者が報道されて喜ばしそうですが、現在の「知的現場」での混乱/疲弊はボディブローのように「長期的」に効いてくるはずです。おそらく今後半世紀近くは、自然科学分野(日本の大学の)からもクリエイティブな人類への貢献は逓減していくものと予想します。もちろん、日本人(日系)研究者がMITやCambridgeで生み出すことは大いにあり得るでしょうが。

投稿: renqing | 2020年9月23日 (水) 13時48分

西村玲さんのことはまったく知りませんでしたが、痛ましいですね。

「「役に立たない学問」を学んでしまった人文系“ワープア博士”」の記事もよみました。亡国的状況です。大学院拡充は必要だったと思いますが、量産される博士号取得者がなぜ必要なのか、その点に関する社会の合意・理解なしに政策を進めてしまったことの結末です。

経済政策の問題としていうと、異才に活躍する場を開くことなくては、独創的な新製品も新しいサービスも生み出すことができず、いずれ経済は停滞します。博士論文を書くというのは、新しい考え方を作りだす訓練です。そういう人たちを企業がうまく使いこなせないことが、現在の日本経済の停滞のひつとの大きな要因であることに気付いてもらいたいと思います。

投稿: 塩沢由典 | 2020年9月23日 (水) 08時01分

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