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2020年9月21日 (月)

「戦後進歩史観」=「司馬史観」の起源について

 前回投稿の近代日本の史家の生没年に引き続き、「代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternatives」様での議論を、弊ブログ記事にて再掲します。

◆「史観」の起源と帝国陸軍

 司馬の個人史をみますと、学徒出陣と帝国陸軍戦車隊の経験が、「司馬史観」の確信的モチベーションになっているようです。これは丸山真男の陸軍内務班体験と同じ個人史です。旧軍用語で、一般社会のことを「地方(=俗世間)」と呼称することとも通底するでしょう。旧帝国陸海軍は、軍事合理性原理で構築されておらず、いわば「教団 sekte」です。その洗脳 (mind control) 過程が、内務班初年兵教育です。

 この悪夢を払拭することが、司馬の「維新/明治礼讃史観」、丸山の「自虐史観」の根底にあります。丸山にはそれに加えて、広島での被爆体験も重なるのでしょう。司馬は「福田定一」として砕け散った青春と誇りを取り戻すために、丸山は日本政治思想史研究者として、日本人としての「尊厳」を回復するために。

◆二重の「不幸」

 戦後、丸山は学会出張などの海外渡航の際、航空機の車輪が羽田の滑走路を離れる度に「ざまあみろ」と心で快哉を叫んだ、と漏らしています。丸山にとってのフィジカルな軍隊経験の凄まじさが伝わってきますし、私自身が生れた時に、あの「教団=狂団」が殲滅していて良かったと心から思います。「福田定一」と丸山真男の個人的な絶望と怒りには同情を禁じえない部分はあります。そのうえに、二人の歪んだ影響力が大きすぎたことは二重の不幸でした。旧帝国陸海軍大好きな現代の叔父さん叔母さんには、一度タイムマシンに乗って、入営してもらいたいものです。

◆「大正」と「革命幻想」

 先のブログ主の関良基氏は、あの兵隊体験を経た丸山と司馬がなぜ明治維新の幻想を清算できなかったのか、と問われました。むしろ帝国陸軍体験が無い、より上の世代の尾佐竹猛や大久保利謙が批判する史眼を持てているのに、と言う訳です。

 二つ要因があると考えられます。一つは、彼らの個人史の中で、大正時代と二人の人生がどのくらい被っているか、という点。もう一つはマルクス主義の影響です。以下のデータは、前回記事「近代日本の史家の生没年 」の表データを作るきっかけとなったもので、その抜粋になっています。

尾佐竹猛 1880 32歳-50歳 1946
大久保利謙 1900 12歳-30歳 1995
丸山真男 1914 0歳-16歳 1996
司馬遼太郎 1923 0歳-7歳 1996

 上は、それぞれの生没年と1912年-1930年が何歳頃だったか、を計算したものです。

 大正期(から昭和5年ロンドン軍縮会議まで)は、21世紀の現代日本人からみれば、Meiji Constitutionと一体のものと見做せますが、其の中に生きた人々にとっては、後年の満州事変以降の昭和時代より、かなりマシだった(良かった/自由だった)という思いが強かったようです。社会の雰囲気が軍縮(粛軍)一色で、高級軍人が家族で外出する際、軍服で出ることが憚られ、私服で出かけざるを得ない雰囲気だったといいます。これも「空気」支配ではありますが。

 この四人を比べますと、尾佐竹と大久保は、肌身で「明治」を知っていて、「大正」を客観視できましたが、丸山と司馬はともに、その知的揺籃期が「大正」そのものでした。そして彼らの青年期は昭和の暗黒時代です。その断絶、失望はかなり大きかったと推測できます。

 またマルクス主義が大正期から昭和初年にかけて日本の知的世界を席巻したことも重要です。河上肇「貧乏物語」大正5年、高畠素之訳「資本論」第一巻大正9年です。丸山も指摘するように、「社会科学」という知的分析道具がマルクス主義に代表されていた時代です。

 ここから派生するのは「革命」幻想でしょう。尾佐竹も大久保も知的保守主義者で「革命」幻想など微塵もないでしょうが、丸山は当然としても、司馬にしても実はちっとも保守主義ではなく、歴史的リセット主義者なのです。彼らにとっては、「革命」は「進歩」を可能にし、国家(と彼ら自身)を救済するもので、「大正少年」であった彼らにとり「維新革命」は「大正」というリアリティの起源であらざるを得なかった。これが、戦後「市民社会派/進歩派」の第一世代が悉く、「大正少年」であり、「保守」/「革新」関係なく、「進歩」or 「革命」幻想家だった知性史的な背景です。

〔参照〕
近代日本の史家の生没年: 本に溺れたい
徳川文明の消尽の後に(改訂版)/After the exhaustion of Tokugawa civilization (revised): 本に溺れたい
Marx と Weber の日本的受容: 本に溺れたい

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