「あなた」の概念史(Begriffsgeschichte)
※ 改題しました。旧題は「あなた、が語るもの」です。
「あなた」とは言っても、半世紀も前のJPOP「あなた」1974年(作/歌,小坂明子)、ではありません。代名詞としての「あなた」のことです。
小学館日本国語大辞典、「あなた」の項になかなか興味深い記述があります。
それは「語誌」にあり、とりわけ(2)が眼を引きます。
語誌
(1)上代に遠称として離れた場所・方向・時・人などを表わした「かれ」「かなた」などに替わって中古から用いられた。「あち」「あちら」などの類縁語を生みながら明治初期まで続き、その後は文章語となった。このうち第三者をさす代名詞の用法は対等以上の敬意で使われた。(2)近世からは「おまえ」に替わって最高段階の敬意を表わす対称代名詞の用法が、上方では宝暦(一七五一~六四)ころから、江戸では明和(一七六四~七二)ころから見られる。文化(一八〇四~一八)ころからは敬意の下限がさがり、近世末期には対等に使われる例もあるが、大正・昭和の初期までは比較的高い敬意を保った。しかし、今日では敬意が低下し、目上の者に対しては使われない。そのため、今日では、上位者に対しては「…さん」のように名前を用いたり、「…先生」「…部長」のように役職者名を用いたりすることが多い。
上記の彩色フォントした部分が注目されます。既に本ブログ別記事において、徳川の化政文化期は実質的に大衆社会化/情報化が進んだ社会である、と述べましたが、それを裏書する記述です。そして徳川末期はそれが行きつくところまで行きついていた、という訳です。※1
日本史家には時折、ペリー来航(1853年)からたった15年間で、あれほど(相対的には)盤石だった徳川公儀権力が崩壊したことを「謎」と表現する向きがいます。しかし、これは「謎」でもなんでもなくて、むしろ当然の成り行きでしょう。徳川日本に胚胎する「近代 modernity」は、19世紀の第一四半期頃には、既に「産気」づいていたのですから。
武家下層あるいは、自らを「士分」と自認する庶民上層における書き言葉が、徳川日本の19世紀から後半の明治日本にかけて、社会の流動化(身分的液状化)に反して、むしろ「漢文脈化」する逆説は、漢文脈では和文脈よりはるかに敬語文体の規制が少なかった、というある種の「選択的親和(Die Wahlverwandtshaften / Elective Affinities」メカニズムが働いた結果です。※2
※1 下記参照
情報化社会としての徳川十九世紀: 本に溺れたい
青木美智男『日本文化の原型』(全集 日本の歴史 別巻)小学館、2009年: 本に溺れたい
※2 下記参照
漱石と近代日本語文体: 本に溺れたい
「選択的親和性」から「進化律」へ / From "Elective Affinities" to "Evolutionary Law": 本に溺れたい
※念のため、小学館日本国語大辞典から最初期の文例のサンプルを一つ引用しておきます。
*歌舞伎・傾城天の羽衣〔1753〕序幕「あられもない所はお免なされ升ふ、殿さま、どふぞあなたのお取なしで」
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