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2021年7月20日 (火)

トクヴィルのパラドックス/ Tocquebille's paradox

 さきに書評しました、宇野氏のトクヴィル本に、ネット万能の現代における、「トクヴィル的状況」という「デモクラシー」における逆説(パラドックス)が最後に再論されていました。ここでは、あえてこの現象を「トクヴィルのパラドックス/ Tocquebille's paradox」と名付けておきます。宇野氏の行論は以下です。

「多数の暴政」(宇野重規『トクヴィル』講談社学術文庫2019年p.207)
 特定の個人を取り上げれば、この世に特別な人はいない。が、そのような人々が集まったとき、その集合的な意見には独特の重みがある。むしろ、平等化時代の個人にとって、多数者の声こそが、唯一にして絶対的な知的権威となるであろう。せっかく知の独立を得た平等化時代の個人は、いとも易々とその独立を多数者の権威の前に放棄してしまうのではないかとトクヴィルは恐れた。
 自分の頭でものを考えようとする人が、逆に、身の周りにいる自分と同じような他人の声に振り回されやすくなる。このことを、トクヴィルは矛盾とは考えなかった。あらゆる権威を否定する平等化時代の個人は、すべてを自分のうちに見出そうとする。しかしながら、自分のうちに絶対的なものがあるわけではない。結局、自分の頭で考えようとすればするほど、他人の影響を受けやすくなる。特定の個人の権威を認めないにもかかわらず、多数者の声に対してはひどく従順になることこそ、「トクヴィル的」とでも呼ぶべき状況であった。

 

 上記の議論を、トクヴィル岩波文庫版からも引いておきます。下記です。

トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)、岩波文庫、pp.29-30
第2巻第1部「デモクラシーが合衆国における知的運動に及ぼす影響」
第2章「民主的諸国民における信仰の主要な源泉について」

 境遇が不平等で、大々が互いに異なっていたときには、教養と知識が豊かで、抜きんでた知性を有する少数の人々がある一方て、大衆は無知で考え方はおそろしく狭かった。貴族制の時代に生さる人々は、だから自然に、理性に優れた一人の人間、一つの階級に導かれて自分の意見を決め、全体の無謬性を認める気にはまずならなかった。
 平等の世紀には逆のことが起こる。
 市民が互いに平等で似たものになるにつれて、ある特定の人間、ある特定の階級を盲目的に信ずる傾向は減少する。市民全体を信用する気分が増大し、ますます世論が世の中を動かすようになる。
 民主的諸国民にあっては、共通の意見だけが個人の理性の唯一の導き手になるというだけではない。そうした国民にあっては他のいかなる国民に比べても、それは限りなく大きな力をもつ。平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用するということが決してない。だが、みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にほとんど無限の信用をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上に、真理が最大多数の側にないとは思えないからである。
 民主的な国で人は周囲の人間一人一人と自分を比べれば、誰に対しても平等だと誇らしく感じる。だが仲間全体を思い浮かべ、この総体の傍らに自分をおいてみると、自分の小ささと弱さにたちまち打ちのめされる。
 平等は人を同胞市民の一人一人から独立させるが、その同じ平等が人間を孤立させ、最大多数の力に対して無防備にする。
 公衆はだから民主的諸国民にあっては、貴族制の国民には思いもよらぬ特別の力を有する。それは信仰を説きはしない。信仰を押し付け、一人一人の知性に対して万人の精神が及ぼす途方もないある種の圧力を通じて信仰を魂の内部か浸み通らせる。

 

※参照 「陰謀論」のラベリング効果(2) / The labeling effect of "conspiracy theories": 本に溺れたい

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