「陰謀論」のラベリング効果(1) / The labeling effect of "conspiracy theories"
昨今の「コロナ・ウィルス」「ワクチン接種」をめぐる議論の交錯を観察して、遅ればせながら1点気付いたことがあります。
「陰謀論」というラベリングは、論敵を価値的に劣化させる強力なレトリックのひとつだ、ということです。
※続編(2)をupしました。
従来からよく見受けられるのは、「ユダヤ人陰謀説」「日米開戦米国陰謀説」、近くは「911陰謀説」で、今回、「コロナ陰謀説」です。
ある事実、事件、歴史、を論ずる際、対立する意見のどちら側からも、自分と対立する意見を「非国民!(=利敵行為!)」、あるいは「それって、単なる(=愚かな)陰謀論では?」とうまく印象付けできると、論敵の議論に合理的根拠や説得性があっても、この印象操作で言説のパワーゲームを制することができる。
現代は「ポスト・トゥルース」の時代だ、と言われます。しかし、考えてみれば、近代以降今日まで、世論が力を持つ「言説のパワーゲーム」ではなかった事は実はなく、「世論」を味方にするための最も効果的(効率的)な手段はマスメディアを制することを通じての「世論」誘導です。
従いまして、売上が死活問題である巨大メディアに、「公平中立」だった例は近代史上ありません。
「脱炭素」、「カーボンゼロ」と言った政府・マスコミの打ち上げ花火が世論誘導であるのも、真実に「脱炭素」、「カーボンゼロ」であるためには、人類規模のマクロ的「経済規模縮小」「人口縮小」が必要であるはずなのに、「《脱炭素》《カーボンゼロ》イノベーションで、経済成長を!」といった自家撞着を平気でするところに見て取れます。
「田中宇の国際ニュース解説」、の
「911とコロナは似ている」
「アングロサクソンを自滅させるコロナ危機」
のように、大きく言えば「陰謀説」でも、議論の中身に参照に値するものもあるので、「ポスト・トゥルース」の世でも、常にかわらないのは、「自分の頭(他人の頭ではなく)で考える」「身軽に問い、打たれ強く考える/ Ask agile and think resilient」ことであると思われます。
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コメント
いわゆる「陰謀論」に疑問をもつ立場の人達が、「陰謀論」という呼称を議論相手を攻撃するラベルとして使っていることを問題にしたものと思います。しかし、「陰謀論」の場合、それを唱える人達がある事象(ワクチン推奨・推進)は、だれだれあるいはある機関の陰謀だと考え主張している事態があります。そのとき、それらの主張者たちを「陰謀論」と呼ぶことには一定の妥当性があるのではないでしょうか。
例として「アカ」と「共産主義」「共産党」をとってみましょう。日本ではまだ共産党をなのる政党が存在します。共産党は、おおくの場合、この党あるいは党の政策を支持する人たちを意味するのでしょうが、よりひろく社会のより強い連帯をもとめる思想についても使われます。「アカ」というのは、もっと曖昧に、共産党支持者に対しても、現社会に批判的な考え方すべてに使いうるラベルとしても、使われています。共産党を狭い意味で使うときには、正確な呼称です。それはラベリング効果を持っていますが、だからといって排除すべきではないでしょう。あらゆる言語表現はラベリングを含んでいます。言語表現がそうした抜けがたい性格をもつことをみとめながらも、より適切な使い方・表現に心がけるしか仕方ないのだと考えます。
あげあしをとるような議論になって恐縮ですが、「自分の頭で考える」というのも、ある種の決まり文句で、自分の思考が諸概念の体系に大きく方向付けられていることを忘れさせる効果をもっています。わたしたちは、むしろ、ただしいことば使いに心がけるべきではないでしょうか。それこそが、C.S.パースなどが目指したプラグマティクス(あるいはプラグマティシズム)だったと考えます。分析哲学や論理実証主義も、こうした運動のいちぶでした。20世紀の前半のこうした考えが色あせて、21世紀の今日、「陰謀論」やその他の自己強化的思考回路の中に閉じこもって抜け出せない人達が増えてきたのは、残念なことです。言語を適切に使うという思想運動はネットという新しい環境にまだ有効なものとなっていません。そうした新しい時代を背景としたことばを適切につかう運動(=哲学)がいま必要とされているように感じます。
投稿: 塩沢由典 | 2021年9月27日 (月) 12時48分