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2021年10月11日 (月)

近代人の形代(かたしろ)、あるいは、小説のこと/ A substitute for Modern person, or a novel

 ジョージ・オーウェル「鯨の腹のなかで」(1940)において、私にとって気を衝かれたと思ったのは以下の箇所でした。〔引用文中のカラー・フォントは引用者による〕

けれども、五ページ、十ページと読むうちに、理解するというよりも理解されていることから来る安らぎを感じるようになる。「彼は私について全部知っている」と感じるようになる。「彼はとくに私のためにこれを書いたのだ。」それはまるで自分に向かってだれかが話しかけてくるのを聞いているみたいだ。
ジョージ・オーウェル「鯨の腹のなかで」訳:鶴見俊輔『鯨の腹のなかで オーウェル評論集3』川端康雄編平凡社ライブラリー(1995年)、pp.14-15
But read him for five pages, ten pages, and you feel the peculiar relief that comes not so much from understanding as from being understood. “He knows all about me ,” you feel; “ he wrote this specially for me.” It is as though you could hear a voicespeaking to you, ***

 

 上記の表現が頭に残っていたとき、amazonレビュー中の下記の言葉に出会いました。

主人公の陽子は、「ごく普通」の女子高生です。それは、いい意味でも、わるい意味でも。普通に善良で、普通に臆病で、普通に卑怯で、普通に弱い。まるで、私(読者自身)のようだと思いました。(中略)そして陽子とともに旅を続ける私(読者自身)もまた、彼女と同じように、自分らしさやどうすれば自分自身を好きでいられるか、ということを自然と考えるようになっていました。
『月の影 影の海 (上) 十二国記 1』(新潮文庫)2012/6/27、小野 不由美 (著), 山田 章博 (イラスト)のamazonレビュー中の、Amazonカスタマー「生き方に迷う若い女性に読んで欲しい」より

 

 自分がいま読んでいる物語から「理解されている」と感じる、まるで「私のために書かれた」と感じる、「彼女(彼)は私自身だ」と感じてしまう。

 小説中に自分自身がいて、傷つき、苦しみ、心から血を流しながらも、主人公とともに傷を癒やし、再び歩き出す。近代社会において、なぜ小説(or 文学)が必要とされたかの理由の一つが、ここにあるように思います。また、古代/中世の《英雄譚》文学から、近代/現代の《凡人譚》文学の変化もこの点と関係があるのでしょう。

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