欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか(1)
本書は、法蔵館から出版された同書単行本(2001年3月20日刊)の文庫版です。その単行本も、改訂増補新版で、元の本は下記です。
末木剛博『東洋の合理思想』1970年8月16日講談社現代新書No.235
従いまして、実質半世紀前の著書ということになります。紀伊国屋書店サイトの単行本(2001年版)紹介ページに、本書の原本である講談社現代新書版(1970年版)は、中国語、韓国語に翻訳され、国際的に広く影響を与えた名著、とあります。半世紀前の時点で、西洋の合理思想に対抗するために、東洋に反(あるいは、非)合理思想を求めるのではなく、むしろ西洋合理思想を準拠枠として、東洋の古典古代において育まれた独自の合理思想を、現代の論理記号を表現手段として記述した、というのが本書の著しい特徴です。それが当時としては類書が無い領域を開いた、として評価されたのだと思われます。
しかし、本書をいま繙いて注目したいのは、「結論」の部分です。長くなりますが、該当箇所を弊ブログにて全文引用しておきます。
◆本書引用(文庫版pp.301-5)
二、それならば欧米の合理主義の根幹は何か。また、その欠陥は何か。
まず、その根幹は矛盾律にある。矛盾律とは「Aと非Aとは同時には成立しない」という原理である。言い換えれば、矛盾を排除することであり、無矛盾性を保持することである。この矛盾律を厳格に、そして徹底的に守り抜くのが欧米の合理主義の根本である。無矛盾的な形式を追求する形式論理学はもちろんのこと、矛盾を媒介者として展開する種々なる弁証法も、矛盾律を根本として堅持しなくてはならないのである。そして矛盾律を堅持することは、矛盾を徹底的に排除することである。欧米の文化は常に自己に矛盾するものを徹底的に排除することによって、自己同一を維持してきたのである。そのお蔭で欧米では科学が発達し、技術が開発され、民主主義が定着し、経済が成長して、輝かしい近代が出現したのである。
しかしこの無類に強力な欧米的合理主義にはおのずからなる限界があり、欠陥がある。十字軍を始めとして、苛烈な宗教裁判、新教と旧教との間の妥協なき宗教戦争等々、合理的な西洋の世界には再三再四発現した不合理極まりない闘争のくりかえしは何と説明してよいのであろうか。そうした好戦的傾向は二十世紀にまで続き、ついに第一次、第二次の世界大戦を惹き起こしたのであるが、それは対日戦を別にすれば、欧米の仲間喧嘩であり、その合理主義が内蔵する自己矛盾の必然的な帰結と言わねばなるまい。
それならば、欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか。その合理主義は元来矛盾を徹底的に排除して無矛盾性を維持することである。それが、矛盾を排除するが故に矛盾に陥って自滅しかねない状態になるのは何故であるか。欧米的合理主義は何か根本的な欠陥を内に抱いているにちがいない。さもなければ、矛盾を排除して却って矛盾に陥るはずがない。その根本的な欠陥とは何か。それは欧米の合理主義が自我中心的合理主義である、という点にあると考えられる。その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するのである。デカルトは神の存在を証明するのに「我思う」から出発し、カントは科学の妥当性を保証するのに「我思う」を証人に立てたが、このように欧米の合理主義は自我を基準として、これに矛盾するものを除き、これに矛盾しないものを保存するという思考法である。一見矛盾を許すかに見えるヘーゲルの弁証法も、「絶対精神」と名づけられる自我が自己に矛盾するものを排除しながら自己を展開していく体系であって、自我中心的合理主義の一典型である。かかる自我中心的合理主義を要約して言えば、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」という一文に尽きるであろう。この原理を忠実に守れば、暴力革命も是認され、民族鏖殺も正当化されるであろう。ここに欧米的合理主義の病巣がある。その病巣を剔抉するには、合理主義から「自我中心」という条件を取り去らねばならないが、本書に集録した東洋の合理思想はそうした非自我中心的合理主義のいくつかの範例を提供するであろう。
三、本書に収めた東洋古来の合理思想は欧米流の自我中心的合理主義とはちがって、非自我中心的である。東洋の合理思想も合理思想の一種であり、その限りで矛盾律に従い矛盾を排除するものである(『韓非子』の「矛盾の説」およびインド論理学の「相違」(viruddha)の概念はその端的な表現である)。その点では西洋の合理主義と何ら相違するところがない。ただ、西洋の場合とちがって、東洋では自我中心という条件をつけないのである。
それは周易の陰陽の弁証法に典型的にみられるように、自我というただ一つの極を立てて、それに背反するものを排除するのではなく、相反し相矛盾する二つの極を立ててその両極の間に補足しあい、相互に相手を肯定する関係を打ち立てるのである。相互に否定するものが相互に肯定するのである。これは矛盾のように見えるが、決して矛盾ではない。たとえば、夫婦の関係を考えてみるがよい。同一人物が夫と妻とを兼ねることはできないので、その限りで(すなわち同一人物に関する限りで)夫と妻という両概念は相反し相互否定する。しかし二人の別人AとBに関して言えば、AがBの夫ならば、BはAの妻となり、またその逆となり、夫と妻のという両概念は相互に相手の必要条件となって相互肯定しあう。これが相互に否定するものが相互に肯定する、ということであって、そこには矛盾は見当たらないのである。つまり、一つの主語に関しては相反または矛盾する二つの概念が、二つの別個の主語に関しては相互に相手の必要条件となり、相互に肯定しあう、という関係である。これは二箇の焦点の結合によって周辺を決定する楕円に似た構造であるから、仮りに「楕円思考」と名づけてもよいであろう。すると、周易の陰陽はまさに楕円思考的な合理思想の典型である。そして本書に紹介した数多くの東洋の弁証法は(仏教であると否とにかかわらず)このような楕円思考的な構造を共有するのであり、それが欧米の自我中心的な合理主義と異なるところである。
欧米の自我中心的合理主義は自我を独立せる実体と考えることに由来する。デカルトが方法的懐疑の末に到達した「考える我」は一つの実体であって「延長的実体」に依存しない独立せるものである。自我がこのように独立せる実体であれば、自我は自身以外のものに依存するはずがなく、したがって自他二極の間の相互依存のあるはずがなく、つまり楕円思考の成立する余地はないのである。これとは反対に、東洋の合理思想は自我を独立せる実体とは認めない。すべてのものは独立せる実体ではないので、必ず他のものに依存しなくてはならなぬと言う。この非実体的な相互依存の考えは仏教にあって特に顕著であるが、周易の陰陽にも、老子の虚無自然の説にも、たとえ陰伏的にしても、その根底に潜んでいる。そしてこの万物の非実体的相互依存性のうえに非自我中心的な合理思想が成立し、楕円思考的合理思想が成立するのである。そしてこれが欧米流の「万人対万人の戦」を超克する唯一の道を暗示するものと筆者は考えている。
◆目次(文庫版)
増補新版への序文
旧版のまえがき
序論 東洋思想と論理
第一部 悟りへの論理―インドの論理思想
1 初期仏教の合理精神
2 古因明の論理
3 新因明の論理
4 インドの弁証法
第二部 中国仏教の論理思想
1 現実の肯定
2 全体主義の真理観
3 多様性の統一
第三部 合理と非合理―古代中国思想の論理
1 不合理の完全排除
2 合理精神の結晶と矛盾の発見
3 形式論理学の完結
4 調和への弁証法
5 東洋の自然と人間
結論
解説/野矢茂樹
◆紀伊国屋書店WEBサイトの紹介文
東洋の合理思想 / 末木 剛博【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
東洋独自の合理思想を鮮かに解明し、国際的にも広く影響を与えた名著に、「楕円思考」を論じた書き下しを増補。欧米の自我中心的合理主義を乗り超える可能性を示唆する。
末木剛博[スエキタケヒロ]
大正10年(1921)山梨県甲府市生まれ。昭和20年東京帝国大学文学部哲学科卒業。東京帝国大学副手、電気通信大学助教授、東京大学教養学部助教授、同教授、東洋大学文学部教授を経て、現在、東京大学名誉教授。論理学・分析哲学・比較思想を中心に研究を進め、東洋の精神を生かした新しい合理主義の確立を目指す。なお本書の初版「東洋の合理思想」(’70年)は中国語、韓国語などにも翻訳されて、国際的にも広く影響を与えた。主著に「記号論理学」(’62年)「論理学概論」(’69年)「ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の研究」全2巻(’76~77年)、「西田幾多郎」全4巻(’83~88年)、監訳に「論理の数学的分析」(’77年)「比較哲学」(’97年)他、論文多数
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