千年前のリケジョ(理系女子)/ A Millennial Science Girl(RIKEJO)
今から約千年前の平安後期、『堤中納言物語』という短編物語集が成立しました。そこに世にも珍しい「虫愛づる姫君」という奇譚があります。高級貴族である大納言の息女で、昆虫が大好きというのです。21世紀の現代日本でも女子は虫嫌いと相場は決まっていますから、今風から見ても相当変わっている女の子です。分子生物学者で《生命誌》の提唱者でもある中村桂子理学博士のご意見を聞いてみましょう。
虫が大好きで、男の子たちに虫を集めさせて、毛虫を手のひらに乗せ「あら、かわいい」と言うのです。・・・。本当にすばらしく生きているのは、私の手のひらの上にいるこの毛虫のほうでしょう。そう思って、よくこれを見てください。見かけが汚いとか、そんなことではなくて、生きているということがすばらしいでしょう。年齢は13歳と書いてあります。昔の13歳ですから、もうお嫁に行きなさいと言われるのですけど、このお姫様、とてもすてきだと私は思います。ナチュラリストです。当時、女の子は眉を剃らなければいけない。それからお歯黒と言って、歯を黒くしなければいけなかった。13歳になると、もうそういうことをしなければいけないのです。でも、彼女は、歯は黒くしないで真っ白い歯で笑って、おかしな子どもだと言って怒られているのです。・・・。観察するのに長い髪がじゃまなので、ひょいと耳にかけます。それもだめだと怒られる。でも、自然ですてきな女の子ですよね。1000年前の女の子です。1000年前の世界中の物語を見ても、このように自然を見て考えている人はいません。しかも女の子です。ここがポイントですね。普通にやっているでしょう。眉を剃るなんてばかばかしいでしょう。観察するとき、髪がじゃまだったら耳にかけるでしょう。当たり前のことを当たり前に考えて、当たり前にしながら自然をよく見ている。これは、日本の普通の女の子のすばらしい例だと思うのです。もちろんこのお姫様はDNAをご存じない。細胞のこともご存じない。でも、頭の中に生命誌絵巻のような生きものたちのイメージを持っていらして、生きものたちがみんな大事という世界が広がっていたと思います。1000年も前にです。
1000年前は『源氏物語』が書かれたころ、紫式部のころです。よく科学は西洋のものと言いますけれど、今の科学が始まったのは17世紀、300年前です。ヨーロッパで科学が生まれ、明治時代に日本はそれを採り入れました。以来、日本は自分で科学を生むことができず、真似をしてきたと言われています。オリジナリティがないと言われてきました。でも、1000年前に自然をきちんと見て「本質が大事」と言って、考えた物語はヨーロッパにはありません。ヨーロッパだけではない。どこにもありません。日本にいらしたこのお姫様、私はこれが生命誌の原点だと思っています。しかも、このお姫様は自然、生きものを愛づる。管理するとか、征服するとは言っていません。そこが日本の特徴であり、大事なところです。『源氏物語』もすばらしいですね。世界に先がけています。しかもちょっとお話ししたように、その中には自然と人間の関係がみごとに描かれています。どちらも女性です。その感覚が大事だと思います。普通の女の子だからできることです。
中村桂子『知の発見 「なぜ」を感じる力』2015年朝日出版社、pp.109-111古典原文
蝶(てふ)めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使(あぜち)大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふこと限りなし。
この姫君ののたまふこと、
「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、誠あり、本地(ほんぢ)尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ。」
とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、
「これが、ならむさまを見む。」
とて、さまざまなる籠箱(こばこ)どもに入れさせたまふ。中にも、
「烏毛虫(かはむし)の、心深きさましたるこそ心にくけれ。」
とて、明け暮れは、耳挟みをして、手のうらに添へふせて、まぼりたまふ。
若き人々は、怖(お)ぢ惑ひければ、男(を)の童(わらは)の、もの怖ぢせず、言ふかひなきを召し寄せて、箱の虫どもを取らせ、名を問ひ聞き、いま新しきには名をつけて、興じたまふ。
「人はすべて、繕(つくろ)ふところあるはわろし。」
とて、眉さらに抜きたまはず、歯黒めさらに、
「うるさし、汚し。」
とて、つけたまはず、いと白らかに笑みつつ、この虫どもを、朝夕(あしたゆふべ)に愛したまふ。人々怖ぢわびて逃ぐれば、その御方は、いとあやしくなむののしりける。かく怖づる人をば、
「けしからず、ばうぞくなり。」
とて、いと眉黒にてなむにらみたまたまけるに、いとど心地なむ惑ひける。
親たちは、
「いとあやしく、さま異(こと)におはするこそ。」
と思(おぼ)しけれど、
「思し取りたることぞあらむや。あやしきことぞ。思ひて聞こゆることは、深く、さ、いらへたまへば、いとぞかしこきや。」
と、これをも、いと恥づかしと思したり。
「さはありとも、音聞きあやしや。人は、見目(みめ)をかしきことをこそ好むなれ。『むくつけげなる烏毛虫を興ずなる。』と、世の人の聞かむもいとあやし。」
と聞こえたまへば、
「苦しからず。よろづのことどもを尋ねて、末を見ればこそ、ことは故あれ。いと幼きことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり。」
そのさまのなり出づるを、取り出でて見せたまへり。
「衣(きぬ)とて、人々の着るも、蚕のまだ羽つかぬにし出(い)だし、蝶になりぬれば、いと喪袖(もそで)にて、あだになりぬるをや。」
とのたまふに、言ひ返すべうもあらず、あさまし。さすがに、親たちにもさし向かひたまはず、
「鬼と女とは、人に見えぬぞよき。」
と案じたまへり。母屋(もや)の簾(すだれ)を少し巻き上げて、几帳(きちやう)出で立て、かく賢(さか)しく言ひ出だしたまふなりけり。現代語訳
蝶々をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる(家の)隣に、按察使の大納言の娘さんが(住んでいて)、奥ゆかしくて並々ならぬ様子で、親たちがこの上なく大切にお育てなさっている。
この姫君がおっしゃることには、
「人々が、花とか蝶とか言ってかわいがるのは、浅はかで不思議なことだ。人には、誠実な心があって、物の本質を追究することこそが、心のあり方に趣があるというものだ。」 と言って、色々な虫で、恐ろしい様子のものを取っては集めて、
「この虫が、変化する様子を見よう。」
と言って、様々な虫かごにお入れになる。中でも、
「毛虫が、趣深い様子をしているのが実に心惹かれることだ。」
と言って、朝も晩も、(作法に反して、額の髪を)耳の後ろに掻きやって、(毛虫を)手のひらに這わせて、じっと見ていらっしゃる。
若い女房たちは、怖がって戸惑ったので、(姫は)男の子の召使いで、物怖じしない、身分の低い者たちを呼び寄せ、箱の虫たちを取らせて、(その虫の)名前を尋ね聞き、さらに新しく見る虫には名前をつけて、面白がっていらっしゃる。
「人間はみんな、取り繕っているところがあるのは良くない。」
と言って、(当時の女性の作法であった)眉毛を抜くこともなさらず、お歯黒などは決して、
「面倒だ、汚い。」
と言って、お付けにならず、たいそう(歯を)白く見せてお笑いになりながら、この虫たちを、朝も晩もかわいがっていらっしゃる。お仕えする人々が怖がって逃げれば、姫君の部屋の方は、たいそう異様な様子で大騒ぎになった。このように怖がる人に対して、(姫は)
「けしからんことだ、下品だ。」
と言って、たいそう黒い眉で睨みなさったので、(女房たちは)たいそう狼狽えたのだった。
親たちは、
「(娘の姫君が)たいそう風変わりで、様子が(普通の娘とは)異なっていらっしゃることだ。(困ったなあ。)」
とお思いになったが、
「(姫君は)深く考えなさっていることがあるのだろう。風変わりなことだ。(私たちが姫君のことを)思って申し上げることには、(姫君は)真剣に、その(=深く思っている)ように、お答えになるので、とても恐れ入ることだよ。」
と、この(=姫君が真剣にお答えになる)ことについても、たいそう気詰まりにお思いになっている。
「そう(=姫君が真剣にお答えになる)とはいっても、世間の評判が悪いものだよ。人は、見た目の美しい物を好むのだ。『(姫君は)気味の悪い毛虫を可愛がっているそうな。』と世の人が(噂を)聞くのもたいそうみっともない。」
と(親が姫君に)申し上げなさると、(姫君は)
「構わない。あらゆる物を追求して、結末を見るからこそ、物事は意味があるのだ。なんとも幼稚なことだ。毛虫は、蝶になるのだ。」
(と言って、毛虫が蝶に)変化するその様子を、取り出してお見せになる。
「絹だと言って、人々が着ているのも、蚕が羽を生やさないうちには(糸を)吐き出し(絹を作るが)、蝶になってしまったら、喪服のようなもので、たいそう無意味なものになってしまうではないか。」
とおっしゃるので、(親たちは)言い返しようもなく、驚き呆れている。そう言いながらも、(姫君は)親に面と向かうことはなさらず、
「鬼と女は、人に見えないのが良いのだなあ。」
と考えていらっしゃる。母屋の簾を少し巻き上げて、几帳を出して立て、このように利口ぶっておっしゃるのだった。
※1 原文、現代語訳ともに、「『堤中納言物語』 虫めづる姫君 | 二階の窓から」様からお借りしました。
※2 新潮日本古典集成 堤中納言物語 塚原鉄雄 校中1983年 の「虫愛づる姫君」の項の扉・解題p.46にこう記されています。
姫君の実践原理は、二条の命題に基礎づけられる。命題の第一は、人工を排除して自然を尊重することである。そこで、一切の化粧を拒絶する。命題の第二は、根源を重視し末葉を無視することである。ここに標題の由来がある。この実践原理は、仏教の輪廻転生の思想を基盤として構築され、姫君の頭脳明晰な理屈の弁舌により護持されているから、何人も、これを、論破し説得することができない。・・・。
姫君の生活姿勢を、世俗の慣行という圧力に反抗して自我の主張を貫徹しようとする、抵抗精神の発露だといった観点から評価する風潮がある。けれども、作品の趣旨ではあるまい。姫君の生態は、化粧の排除もそうだが、王朝貴族の美学を基準とすれば、怪奇醜悪で嫌悪忌避すべき存在であった。そうした醜悪の美学が、伝統の、優美の美学に対立して措定されたということなのである。世紀末的な露悪思想と猟奇趣味とを反映する、頽廃精神の産物といえよう。
この評言は、この物語の当時の(おそらく)男性編者の編集意図の解説としては妥当かも知れません。しかし、この物語の奇矯な姫君(あるいは、仮にいるとして、モデルとなった姫君)本人の視点に立てば、中村桂子氏の解釈がむしろナチュラルかな、と思ったりしますがどうでしょう?
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