なぜヨーロッパ史はスキャンダルになったか(2)
先に、弊ブログ記事として「なぜヨーロッパ史はスキャンダルになったか」をupしました。これは、
関 曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか ―西洋と日本の歴史を問いなおす― 』2016年3月NTT出版
の抜粋(pp.37-42)でした。
その引用文中で、関 曠野が「スキャンダル」なる語を用いています。この語は、その行文では、普段私たちが日常語で使用する意味、たとえば「ゴシップ」の類ではなく、もう少し方法論的な使い方、あるいは文脈で、著者である関 曠野により使用されています。
従いまして、そのずれが読者に誤解を与えかねないと懸念を感じました。そこで、この「スキャンダル」という語について関 曠野自身が説明している、同書の「はじめに」(pp.3-6)につき、その日本語原文、英訳文、を弊ブログに追加の記事としてupすることに致しました。下記です。
本書、pp.3-6
はじめに ―思想史とはいかなる作業なのか過去の思想の呪縛
日本では、有名な丸山真男の理論信仰と実感信仰という言葉がありますね。私にとってはインテリや学者のドグマ的な理論信仰などどうでもいい。どっちみち歴史によって反駁されるものですから放っておいてよいと思っています。
私が問題にしているのは、自分は現実主義者、リアリストのつもりのインテリや学者が、いかにさまざまな思想に呪縛されているかということです。過去の思想にとらわれていて、ぜんぜんリアリストではないわけです。丸山真男が理論信仰といったのは、マルクス主義者が頭にあったのでしょうが、リアリストを自任しながら、実は昔のドグマに呪縛されている典型が今のさまざまな流派の経済学者です。
さらに問題なのは、まったく素朴な実感で生きているはずの庶民、大衆も深く思想に呪縛されていることです。それが問題なのです。たとえば、近代の天皇制は、制度として明治政府がでっち上げたものです。しかし、日本人は現にある天皇制になじんでしまっています。制度になじむと、大衆は生活感覚の中で、皮膚や毛穴からいろんな思想を吸い込んでしまうということがあるのですね。天皇制でいうと、制度になじむということは、この制度を作った思想に知らず知らずに感化され、それを吸収してしまうということなのです。
天皇制はカイザー(ドイツ皇帝)のドイツ帝国をモデルにして作られました。その結果、ドイツ思想など知らない庶民がヘーゲルやシュタインなどが作り上げたプロイセンの国家哲学に呪縛されてしまう。しかもそれに気が付かないという問題があるわけです※。私にとっての思想史の課題は、自称現実主義者のインテリ、あるいは実感主義者であるはずの庶民を呪縛しているさまざまな思想を暴き出すこと、さまざまな過去の思想、偏見、予断、伝聞、こうしたものにわれわれがいかに汚染されているかを暴き出すことです。
思想史の方法
私がとる思想史の方法は、科学史と同じです。科学の歴史は、初め素朴な仮説から始まって、つぎつぎと真理を発見し、蓄積していって、いずれは究極の真理に到達する歴史と思われています。一般の科学史にはそんなふうに書いてあるものが多い。これは学校教育の発想ですね。幼稚園から始まって大学までいくという発想、それがそのまま思想史になってしまっているわけです。
しかし、実際の科学の歴史は、次第に絶対的真理に迫っていく歴史などではありません。科学は客観性、実証性を重んじ、世界をあるがままに捉えるものであるはずなのですが、ぜんぜんそうなっていないのです。科学が現象を捉える場合は、たんなる実感ではだめで、理論的仮説が必要です。それがあって初めて現象が捉えられ、解明できる。そして、科学における理論的仮説は、あくまで実験装置の一部なのです。ドグマではないわけです。実験で誤っている、役に立たないと分かれば、その理論的仮説は放棄されます。にもかかわらず、科学者がいかに昔の学説やら偏見やら先入観にとらわれてきたか、科学の歴史はそうした先入観との格闘の歴史です。フランスの科学哲学者バシュラールが使った言葉に「認識論的障害」がありますが、それに該当します。
科学者は純粋に客観的に現象を追っているつもりでも、科学的とはいえない、いろいろな思想に無意識に呪縛されてきたということです。たとえば、優生学という学問などでは、それがはっきりと出てくるわけですが、純粋な理論物理学でさえも、そういう障害に足を引っ張られることはいくらでもあるわけです。そういう意味では科学史というのは、科学者を無意識に呪縛していたさまざまな思想、偏見、先入見を明るみにだし、排除していく歴史なのです。そして、私にとって思想史の作業も、それと同じものなのです。
人間は実は思想過剰なのであって、どうやって思想の過剰を排除して、言ってみれば究極の無思想になれるか。究極の無思想になれば、人間の思想と現実が完全に一致する。これは極限で、そうした境地にはついに達しえないでしょう。私に言わせれば、すでに小学生の頃に人間の頭は思想でいっぱいになっている。それに一生気が付かないことがある。さまざまな思想を自分の素朴な実感だと思っている。その結果、すでに過去の遺物になった思想に振り回される。ですから、どうやって自分を呪縛している思想を発見し、排除していくか。これが思想史の作業なのです。ある意味では、究極の無思想であることが理想なのです。そのためには生涯にわたる修業が必要となるわけです。
歴史を「スキャンダル」として暴く
科学史の場合は、科学者がどこまで認識論的障害に足を取られてきたかということで済むのですが、現実の政治・経済・思想などが問題になってくると、科学史のような認識の問題では片付かない。現実に社会を動かしている権力が、そうした予断や先入観にとらわれた言説の秩序として成立しているわけですから、その秩序は人びとを呪縛している過去の遺物にすぎないと公言することは、スキャンダルなのです。だから思想史の本は必然的にスキャンダルの本にならざるをえない。
私は一九八二年の処女作の『プラトンと資本主義』以来、歴史をスキャンダルとして暴いてきました。『プラトンと資本主義』は、ヨーロッパ文明そのものの根本にスキャンダルの要素があると言っています。これを出発点として、私は次から次へと歴史をスキャンダルとして掘り起こしてきました。大抵の人は学校教育のパターンで、幼稚園から始まって大学へ行くことで真理に近づいていくという発想ですから、こういう私の本は俗受けしません。人間は思想過剰であることが問題であり、究極の無思想こそ理想などと言明することの方が、世間にとってはスキャンダルなのです。
※renqing註 この点については、異なる観点からの評価もあり得る。明治憲法上の国制史的連続性の可能性である。下記参照。
徳川期の「天皇機関説」/ The Constitutionalism of "the Emperor" in Tokugawa Japan: 本に溺れたい
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コメント
塩沢先生
「Realityというものは、けっきょく常識かふつうに受け入れている理論によって見えてきたもの」とは、結局、
theory-ladenness of observation (N.R.Hanson)
ならぬ
theory-ladenness of reality
ということになりますね。
また、これは、J.M.Keynesの言う、
Practical men, who believe themselves to be quite exempt from any intellectual influences, are usually the slaves of some defunct economist.
と本質的に同じ事態でしょう。
「合理性の限界」下にある人間にとって、「理論theory」も人間をサポートする「資源 resources」として重要な道具なので、不可避なこと、という訳です。
投稿: renqing | 2022年5月23日 (月) 05時03分
塩沢先生、コメントありがとうございます。
先生のコメントは、ともすると怠惰に流れやすい私の精神生活に、「知的な針」を打ち込むもので、本当に有難いです。時折、「知的な杭」であることもありますが(笑)。
丸山真男の、「実感信仰 vs. 理論信仰」についての議論は、下記に書かれています。
丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書、Ⅰ章「日本の思想」、四節(pp.52-62)
「実感信仰の問題」、同書、p.53
「理論信仰の発生」、同書、p.57
ちょっと、興趣が向きましたので、それぞれの小節をデジタルテキスト化してみます。塩沢先生以外にも、関心を持たれる方がひょっとするといるかも知れません。
投稿: renqing | 2022年5月22日 (日) 23時28分
別件になるので触れませんでしたが、英訳の中の丸山正男の理論信仰・実感信仰が
a famous phrase by Masao Maruyama, "faith in theory or faith in reality".
と訳されている点が、とても参考になりました。
経済学(の周辺)でもrealityについての議論がおおいのですが、これを「現実性」とふつうに訳してしまうとまちがいかもしれません。「実感」と訳してみると、経済学におけるrealityの議論にも、いろいろ示唆があります。Realityというものは、けっきょく常識かふつうに受け入れている理論によって見えてきたものであって、まさに実感ではあるが、それがそのまま適切な論拠となるかは疑問です。といっても、わたしは経済学が現実性をもたなければならないとは思っています。
丸山さんの「理論信仰・実感信仰」は有名ですが、どこにでてくるのかご存じですか。あらためて読んでみたくなりました。
投稿: 塩沢由典 | 2022年5月22日 (日) 13時35分
塩沢先生、コメントありがとうございます。
私は、関 曠野氏の子分でも、親類縁者でもないので、御本尊を守護しようなどという気は毛頭ありません。したがいまして、塩沢先生の指摘される関氏の文章における断定口調への違和感は、私も時折「そんなに言い切って大丈夫なのだろうか?」と思います。
一応、この点に関する私の考えは以下のようなものです。
①関氏の持って生まれた性格が文章に反映している可能性。
これはどうしようもありません。
理屈っぽく考えればこうです。
②関氏は、『プラトンと資本主義』改訂新版1996年、「改訂新版へのあとがき」p.429で、「本書は…、このウェーバーの有名なテーゼにささやかな仮説をつけ加えるにすぎない。」と述べています。これからすれば、関氏も自己の見解を一つの仮説(one of them)とみなしていると考えられます。従って、我々としては、彼の口調に「もう少し別の表現もあるだろう。」と内心思いつつも、塩沢先生のおっしゃるように「こういう一筋の細い糸があるという程度」で、受け止めておいて宜しいのではないでしょうか。私自身はそういう姿勢です。
③また、関氏は、関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、p.25、でこうも書いています。
「歴史学は科学ではなくて全人類へ向けた一種の法廷弁論なのだ。歴史を書くということは一つの判決文を書くことであり、歴史家に公正な態度と事実の尊重が要求されるのもそのためである。」
とありますから、関氏は自分を歴史家と自己規定されているので、彼の文は、歴史裁判における一つ判決文であり、判決文に「かも知れない」、あるいは「~と考える」との文言はあり得ず、「である」しか表現の仕様がない、とも受取れます。その文言において、彼は自分に「公正な態度」と「事実の尊重」を課している、と推測されます。彼に「不公正な態度」や「事実を尊重していない」点があるなら、その旨、批判する側が反駁すべきだ、というのが彼の構え、なのでしょう。
多少皮肉っぽく付言すれば、関氏の議論は、歴史法廷の判決文というより、法廷弁論に提出された原告側訴状、と表現したほうがより適切かと思われますが。
投稿: renqing | 2022年5月16日 (月) 13時39分
関廣野さんの本や論文はほとんど読んだことがありません。むかし『思想の科学』の1990年11月号に「左翼の滅び方」という論文が掲載され、後に窓社がこの論文とそれにたいするコメントを集めて関廣野著『左翼の滅び方について』(1992年2月、窓社ブックレット5)を出版しました。なぜかわたしもコメントを求められて「負の遺産を受け継ぐこと」という5~6ページの短文を書きました。これはわたしの『マルクスの遺産』(藤原書店、2002年)の冒頭の「序」として再録しました。くわしくは同文を読んで欲しいのですが、一部だけ抜粋します。
> しかし、わたしは関氏の論文にいくらか違和感を感ずる。それは関氏の文体にかんすることである。マルクスおよびマルクス主義者について語るとき、氏は必要以上に断定的であり、粗っぽい。それはかつての多くのマルクス主義者が、みずからを真理の高みにおいて、他のあらゆる潮流をののしったのに似ている。その文体はけっしてマルクス主義の必然ではなかったが(たとえば古在由重のようなマルクス主義者がいたのだから)、マルクスの本質に近いところに派生した態度の取り方ではなかったか。関廣野氏の文体がおなじような偏狭さを感じさせるのは残念なことだ。(『マルクスの遺産』p.22)
『なぜヨーロッパ史はスキャンダルになったか』の解説を読んでも、上と同様の印象をもちます(解説しか読んでいません)。歴史がそんなにすべて必然で語れるのか、わたしは疑問に思います。こういう一筋の細い糸があるという程度ならおもしろい考察です。
投稿: 塩沢由典 | 2022年5月16日 (月) 08時39分