丸山真男の「理論信仰」対「実感信仰」
丸山真男の非常に有名な(かつては?)、「理論信仰」対「実感信仰」、という議論ですが、これ、出典を読まれたことがない方(多分、若い方)も結構いるのではないでしょうか。出身学部が文系で、現在60歳代以上の方なら、大学生協書籍部に必ず平積みされていたので、立ち読みくらい一度はされていたはずの、下記の書が出典です。
丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書
自治体の図書館なら、必ず蔵書されているでしょうが、買うのは勿論、図書館から借り出すのも、ちょっと億劫という方のために、本書の該当頁(10頁分)をテキスト化し、本ブログにupしておくこととしました。利用して頂ければ嬉しいです。
(註)この議論に関する、現在のブログ主の雑感は、(2)で書くつもりです。他に書きたい書評もあるので、こちらはその後になりそうです。
丸山真男『日本の思想』1961年、東京、岩波書店
目次
第1章 日本の思想(pp.1-66)
まえがき 日本における思想的座標軸の欠如、ほか
1.イデオロギー暴露の早熟的登場、ほか
2.「国体」における臣民の無限責任、ほか
3.天皇制における無責任の体系、ほか
4.〔本記事の以下にテキスト化:ブログ主・註〕
おわりに
第2章 近代日本の思想と文学―一つのケース・スタディとして(pp.67-122)
まえがき 政治‐科学‐文学、ほか
1.明治末年における文学と政治という問題の立てかた、ほか
2.プロレタリア文学理論における政治的および科学的なトータリズム、ほか
3.各文化領域における「自律性」の模索、ほか
おわりに
第3章 思想のあり方について(pp.123-152)
人間はイメージを頼りにして物事を判断する
イメージが作り出す新しい現実
組織における隠語の発生と偏見の沈殿
被害者意識の氾濫、ほか
第4章「である」ことと「する」こと(pp.153-180)
「権利の上にねむる者」
「である」社会と「である」道徳
「する」組織の社会的台頭
「する」価値と「である」価値との倒錯、ほか
あとがき
丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書、Ⅰ章「日本の思想」、四節(pp.52-62)
「二つの思考様式の対立」、同書、p.52
右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的パターンをかたちづくっている。しかもこの両者は全く機能する次元を異にし、思想的な相互媒介ができないためにかえって同一人間のなかに共存して、場によって使い分けられることもあるし、異なった方向から意図的にあるいは無意図的に、同じ目的に奉仕するという結果にもなる。それは近代化の矛盾がはげしくなるにつれて乖離を露わにしたが、もともと日本の「近代」そのものに内在し微妙なバランスを保っていた契機の両極化であり、すなわち、日本における「制度」と「精神」との構造連関が認識論的側面において、両極として表現された形態にほかならない。そうして日本における社会科学の「伝統的」思考形態と、文学におけるそれ以上伝統的な「実感」信仰の相交わらぬ平行線もまたつきつめれば同じ根源に帰着するように思われる。
「実感信仰の問題」、同書、p.53日本の近代文学は「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを掴もうとする懸命な模索から出発した。しかもここでは、(ⅰ)感覚的なニュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格、(ⅱ)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(ⅲ)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(ⅳ)文学者が(鴎外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者まはた直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入ったものが少なくなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民ルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと―などの事情によって、制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。
そこでは制度にたいする反発(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分かちがたく結ばれ、また、前述した「成上り社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に胚胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反発を「伝統化」した。しかもヨーロッパのロマン主義者のように自然科学的知性そのものを真向から否定するには、近代日本全体があまりに自然科学と技術の成果に依存しており、またその確実性を疑うほどの精神の強烈さ(あるいは頑固さ)もわが国の文学者は持ち合わせない。こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直観で掴むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する!(小林秀雄『Xへの手紙』)
「日本におけるマルクス主義の思想史的意義」p.55あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な抽象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもるこうした思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは、ほとんど自然的現実にたいすると同じ「すなお」な心情でこれを絶対化するプロセスについては、ここで立入った叙述を略する。その代り、最後にわが国では社会科学的思考を代表し文学的「実感」の抵抗を伝統的に触発して来たマルクス主義の問題を、以上のテーマとの関連でとり上げ、近代日本の知的構造における問題性を総括することとしよう。
マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は後で述べるような悲劇の因をなしたけれども、そこにはそれなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的動因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッパでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。
第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めていくものである事を明らかにした。これまで哲学に於いてのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではなくて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまた凡そデカルト、ベーコン以来の近代的知性に当然内在しているはずの論理は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模に呼び醒まされたといって過言ではない。さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが国では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということをやはり社会的規模に於て教えたのはマルクス主義であった。たとえコンミュニストの大量転向が、前述したように思考様式からすれば、多くは伝統的な形でおこなわれたにしても、思想的転向がともかく良心のいたみとして、いろいろな形で(たとえマイナスの形ででも)残ったということは、少なくもこれまでの「思想」には見られなかったことである。マルクス主義が日本の知識人の内面にきざみつけた深い刻印を単にその他もろもろのハイカラな思想に対すると同じに、日本人の新しがりや知的好奇心に帰するのが、どんなに皮相な見解であるかはこれだけでも明らかだろう。
「理論信仰の発生」、同書、p.57しかしながら、マルクス主義が日本でこのような巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と―現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性からうける抵抗と反発とをマルクス主義は一手に引き受ける結果となった。第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想家にも多かれ少かれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体系的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有な観を呈するに至った。ちょうどマルクス主義が「思想問題」を独占したように公式主義もまたマルクス主義の専売であるかのように今日でも考えられている。その際、「公式」というものがもつ意味や機能は殆んど反省されず、またマルクス主義以外の主義・世界観・教義などが果して日本の土壌で理解され信奉されるときはマルクス主義に劣らず公式主義的にならないかという問題はともすると看過されるのである。
理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神 ― 自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神 ― からでなく、既製品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。日本の大学生や知識人はいろいろな範疇の「抽象的」な組合せによる概念操作はかえって西洋人よりうまいと外国人教師に、皮肉を交えた驚嘆を放たせる所以である。
しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊饒な現実と比べて、みすぼらしく映ずることは当然である〔ブログ主註:本記事末文の著者註とブログ主註を参照〕。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆んど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反発も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果しない悪循環をおこすのである。
しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった※ 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。※ ブログ主註:ヘーゲル/マルクスの終末論(ヘブライズム=キリスト教神学)的構造。だから、デモーニッシュにもならざるを得ません。「神学」であれば、仮説やフィクションという要素はゼロです。
「理論における無限責任と無責任」、同書、p.60本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。
ところが、実践(実感!)に対するコンプレックスの形であれ、あるいは理論の物神化の形であれ、理論が現実と同じ次元に立って競争するような知的風土では、さきのヘーゲル→マルクス的考え方はややもすると次のような結果を生む。すなわち一方、自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建て前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。もっとも、マルクス主義においてはトータルな理論化によって蓄積された現実に対する負債は、現実のトータルな革命的変革で返却される仕組みになっているのだが、この仕組みはトータルな変革が現実の日程に上っているか、そうでなくても組織論が自然成長性と目的意識性との結合を、日常生活面からトップ・レヴェルの問題まで、各々の次元に有効に推し進めているかぎりにおいてのみ実現される。いずれの条件も欠けていて理論の物神化だけが進行すると、社会科学や歴史学の中で革命が自慰を行うという一種の革命アカデミズムの傾向になるか、それとも経典(『資本論』)の訓詁注釈学としてあらわれるか、どちらかに転化することがほとんど避けられなくなるのである。
繰り返しいうように、以上の問題は必ずしも厳密な意味のマルクス主義者の間にだけ見られるのではなく、多少とも日本の社会科学にこれまで伴って来た傾向である。社会科学は文学とちがって本来、論理と抽象の世界であり、また(それがよいかどうかは別として)必ずしも自己の精神の内面をくぐらずに ― 個性の媒介を経ないで ― 、科学の「約束」にしたがって対象的に操作しうるので、少くも理論化された内容に関する限り、日本の思考様式に直接緊縛されるモメントが希薄である。それだけに対象化された理論とその背後のなまの人間の思考様式との分裂が現れやすいわけである。社会科学の発想と文学的発想とのくいちがいが日本における「ヨーロッパ」対「伝統」の問題のような形であらわれるのはここに由来している。本当の問題は両者に裏はらの形で共通して刻印されている日本の「近代」の認識論的特質なのではなかろうか。それが社会科学者と文学者によってともに自覚されるとき、そのときはじめて、両者に共通の場がひらける。前述した官僚的思考とローファー的思考との悪循環の根をたちきるためのさし当りの一歩がこの辺にあるように思われる。同書、p.62
※ さきに引用した制度化と現実の関係についてのトレルチの言葉を想起されたい。「理論は灰色で現実は緑だ」というゲーテの有名な言葉は、またマルクス主義最高の理論家でもあるレーニンのもっとも愛好した言葉でもあった。しかしこの言葉もまたさまざまの歪曲のヴァリエーションをもっている。第一には、理論の追求などは所詮人生における本質的なものにかかわりなく、二葉亭ではないが、男子一生の業とするに足りないという慷慨派または実感密着派の正当づけとなる形態、第二に、手足をバタバタ動かす「実践」の優位、第三に、一方で理論のスコラ主義を「堅持」しながら、他方で「実感」に機会主義的に追随するという使い分け等々。(私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから、「庶民の実感」に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある。)したがって「理論信仰」と「実感信仰」は必ずしも同一人のなかに併存するのをさまたげないわけである。
〔註〕ゲーテの「理論は灰色で現実は緑だ」、については、下記参照。原文を引いてあります。
Grau, teurer Freund, ist alle Theorie,Und grun des Lebens goldner Baum.(Mephistopheles): 本に溺れたい
〔情報〕下左『日本政治思想史研究』、下右『現代政治の思想と行動』
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コメント
丸山正男の『日本の思想』は、1962年か63年に読んだはずです(大学の1年か2年)。しかし、中身はまったく忘れていました。ここに「理論信仰」「実感信仰」の話がでていたことも忘れていました。というのは、1960年代にはこの話(二つの信仰)はあまりに有名で、いろいろな人が使っていました。わたしも、なんどか人が使っていることからの耳学問だったと思います。あえていえば「集合的記憶」かもしれません。
今回、上記解説をあらためて読んでみて、わたしの中の「理論信仰」「実感信仰」は、もともと丸山が言おうとしていたものからだいぶ変更されていることに気づきました。
もうひとつ、わたしの中では「理論信仰」「実践信仰」が対になっていたのですが、丸山眞男も二つにふれていることがわかりました。
もともとの本はどうしたのだろうか探してみましたが、やはりフランスに行くとき処分してしまったようです。
投稿: 塩沢由典 | 2022年5月23日 (月) 18時06分