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2022年6月 5日 (日)

丸山真男「現代自由主義論」1948年

初出:思想の言葉、『思想』昭和23年9月号、岩波書店
出典:丸山真男『戦中と戦後の間 1936―1957』1976年、みすず書房、pp.363-6

丸山真男「現代自由主義論」1948年

 ひとは通常自由主義が歴史的に主張し来つたもろもろの「自由」を実質上の自由と形式上の自由に分ける。実質上の自由とは生命・身体の自由とか、企業の自由とか居住・移転の自由とかいうように、一定の具体的生活内容における自由であり、之に対して、思想言論の自由及び政治的自由が形式上の自由と呼ばれるのである。いわば前者は自由主義の実現せんとする目的であり、後者はそうした実質的自由の実現のために要求された手段であるともいえよう。劃然と二つに分けるのは一見おかしいようだが、しかも自由主義の歴史的特質として重要なことは、この実質と形式、目的と手段の間の二義的な相応関係についてのオプティミズムである。いいかえれば、形式的自由が完全に実現されれば自から実質的自由は齎されるという信仰が長く自由主義の生命を形造つて来た。人民の生活を抑圧し人格の解放を妨げている障害はもつぱら政治権力の恣意的な行使にあり、従つて思想と言論の自由の確保によつて政治権力を批判し、参政権を通じて権力をコントロールする事が可能となれば、いわば自動的に人民の実質的自由が実現されると考えられた。だからそこでは人民の意志の発現をはばむ人為的な抑圧機構の排除ということに自から関心が集中し、その発現の結果、果して意図された内容的自由が齎されるかどうかということについての疑惑は殆ど存しなかったのである。自由主義の闘争において、終始形式的側面が優位を占めたのは当然であった。かくして十九世紀における自由民主政の世界的進展はかく形式的に把握された「人民の意志」をば政治的支配の唯一の正当性根拠にまで高めたのである。ところが「人民の意志」の勝利が普遍的に承認されたまさにその瞬間から、その内容的自明性はくずれはじめたのである。エンゲルスが晩年普通選挙の実施を社会主義への路として期待をかけたことは、十九世紀社会主義が終始形式的自由の実質的自由への転化についてのオプティミズムから訣別していなかつたことを示しているが、ボルシェヴィズムによって「人民の意志」の純形式的把握が覆えされ、人民から発しながら逆に人民意志を積極的に形成する「前衛」理論が主張されることによって形式と内容との鋭い分裂が露わとなつた。「自由への強制」というルソーの問題が全く異なつた次元において再び日程に上つて来たのである。そうしてドイツ・ファシズムが政治的自由と寛容の体制の真只中から、まさにその形式的自由を足場としてあの兇暴な支配権を獲得したとき、自由主義の悲劇は頂点に達したのである。

 現段階における自由民主主義の陣営はこの様な歴史的試練を経てその相貌を一変するに至った。それはもはや近代的自由の内容と形式との一致についての素朴な信仰を決定的に棄てている。形式的自由の実質的自由への必然的転化ということはここでも既に信ぜられなくなつた。それは思想・言論の自由と公権への参加を手放しに解放しないでこれを特定の生活様式に対する忠誠によって限定しようとする。それは巨大な宣伝網と教育組織によって国民の不断の等質化を行う一方、異質的なものは断乎として政治的権利を制限し乃至剥奪する。「選挙によって多数を占めたいかなる政治勢力にも国家の指導権を引き渡す用意のある」(ラートブルッフ)相対主義的原則はもはやその儘では妥当しない。いな、ある場合には他国民の選挙に干渉することすら許容されるのである。

 現代の自由主義は、この様に手放しの相対主義と放任主義を捨てて、自由の実質を形成する―とそれが考えている―特定の生活様式を積極的に擁護し、「人民の意志」をその目的へと陶冶して行く態度をとっているために、その一時陥った政治的無力を脱して誕生期の如き旺盛な戦闘性をとりもどしつつあることは否定できない。しかし自由主義がかく実質的目的を第一義として、形式的自由を従属的地位に置いたということは、自由主義が他のイデオロギーに対して従来持っていた最大の特色を放棄したに等しい。なぜなら、あらゆる政治的イデオロギーが自己を絶対化し排他的になる傾向を本来具有している中にあって、己れの積極的内容はどこまでも堅持しつつ、しかも他のイデオロギーに対しても自己主張の権利を平等に認める寛容の精神を本質としたことが、自由主義をして一段高い道徳的優越性を保持せしめた所以ではなかつたか。もしそれが異質的なものを拒否して、社会の等質化を徹底し、その範囲内でのみ批判と政治的活動の自由を容認するにとどまるなら、「全体主義」の名で呼ばれているコンミュニズムとその点では本質的に差別はなくなり、もっぱらその実質的価値について世界史の審判をうけねばならぬ。両者の間にあるものは自由対強制の対立ではなく、もしいいべくんば、一つの種類の「自由」へ強制するか、それとも他の種類の「自由」へ強制するか、という対立にすぎない。自由主義はこのディレンマに面して、どこまでその本質たる形式的自由の優位を保持しうるだろうか。

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