「具象以前」湯川秀樹(1961年1月)
人生のもっとも大きな喜びの一つは、年来の希望が実現した時、長年の努力が実を結んだ時に得られる。私のような研究者にとっては、長い間、心の中で暖めていた着想・構想が、一つの具体的な理論体系の形にまとまった時、そしてそれから出てくる結論が実験によって確認された時に、最も大きな生きがいが感ぜられる。しかし、そういう瞬間は、私たちの長い研究生活の間に、ごくまれにしか訪れない。私たちの人生のほとんど全部は、同じようなことのくりかえし、同じ平面の上でのゆきつもどりつのために費やされてしまう。日々の努力によって、相当前進したつもりになっていても、ふりかえってみると、結局、同じ平面の上の少し離れたところにきているにすぎないことを、あまりにもしばしば発見する。一つの段階からもう一つ上の段階に飛びあがれるのは、それこそ天の羽衣がきてなでるほどに、まれなことである。
そんなら人生の大半は、小さくいえばその人の個人としての進歩・飛躍、大きくいえば人類の進歩・飛躍とは無関係な、エネルギーの消費に終始しているのであろうか。決してそうではないように思われる。むしろムダに終わってしまったように見える努力のくりかえしの方が、たまにしか訪れない決定的瞬間より、ずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか。ずっと若いころの私は「百日の労苦は一日の成功のためにある」という考えに傾いていた。近年の私の考え方は、年とともにそれとは反対の方向に傾いてきた。それに伴なって、真理の探求の道を歩いた多くの科学者に対する私の評価も、昔と今とでは大分違ってきた。
ある科学者が画期的な発見をするとか、基本的に新しい着想から出発した、ある学説を提唱するとかした場合、私たちはもちろん、その学者を高く評価する。一言にしていえば、科学者をその業績によって評価する、それは確かに公正な態度である。どんなにその学者が苦心さんたんしたにせよ、そこから独創的な業績が生まれなかったら、多くの場合、私たちはその人の価値を認める正当な理由を持ちえないであろう。それはそうに違いない。しかし同時にそれは、外から見た時の、やや離れて見た時の評価でもある。
ところで、私たちは自分以外の学者の大多数が、どういう苦労をしているか、何に苦労をしているかを知らない。自分の身近な少数の学者について、あるいは遠くにいる学者がある大きな成功を収めた場合についてだけ、それらの人々の苦心を知らされたり、関心を持ったりするのである。一人の人間の能力はきわめて限られている。自分以外の多数の人たちの苦労に一々関心を持っていたのでは、自分自身が失われてしまうであろう。それもその通りである。
しかし、それにもかかわらず、私は近来、外から見て、離れて見て、ある人の評価をするだけではいけないということを、ますます強く感じるようになってきた。ある人が何のために努力しているか、何に苦労しているかという面を、もっと重要視しなければならないと思うようになってきた。天の羽衣が来てなでるという幸運は滅多に来ない。一度もそういう幸運に恵まれずに一生を終わる人の方がずっと多いであろう。しかし、だからといって、そういう人の人生は無意味であったとは限らない。他人は知らなくても、その人自身は何かについて苦心をしつづけていたかもしれない。その「何か」が重要なことであったかもしれない。「どんな風に」苦心したかが重要であったかもしれない。絵をかく人は、絵になる以前のイメージを自分の中で暖ため育ててきたであろう。彫刻家は素材を前にして、まだ現実化されない理想的な形態を思い浮かべているであろう。科学者の研究が一応完結するまでに、一編の論文となるまでに、どんなに長い間、生みの苦しみをつづけてきたのか。ついに絵にならない場合、ついに彫刻が完成しない場合、論文が出版されない場合、それがどんなに多いか。外から離れて見る者にはわからない。いわばそれは具象以前の世界である。混沌から、ある明確な形態をもった物が生まれるより以前の世界、生まれようとしている世界である。その人自身にとって、また深い関心をもって、その人の世界を知ろうとする人にとって、それは無意味な世界ではない。
科学文明の発達の結果として、情報伝達の方法が急激に変化してきた。新聞・ラジオ・テレビ等を通じて私たちに与えられる情報が、ますます重要となり、私たちに圧倒的な影響を及ぼすようになってきた。それは一方では、遠く離れたところで起こった出来事、自分と直接関係のない人びとを、身近に感じさせる作用を持っている。他方ではしかし、情報を受けとる個人の特殊性を越えて、あらかじめ選択された情報を万人に同じように与える作用も持っている。それはすでに具象化されたものの中からの選択である。具象以前の世界は初めから問題になっていない。
情報伝達だけではない。人間の頭脳の機能の一部までも機械が受けもってくれるようになってきた。しかし、そういう機械もまた、すでに具象化された知識を適当な記号の形に変えた時にだけ、それを質問として受け入れてくれるのである。そしてその機械が与えてくれる答えもまた、具象化された知識に関するものだけである。人間は具象以前の世界を内蔵している。そしてそこから何か具象化されたものを取り出そうとする。科学も芸術もそういう努力の現れである。いわば混沌に目鼻をつけようとする努力である。人生の意義の少なくとも一つは、ここに見出し得るのではなかろうか。
随想全集 第九巻/石原純・朝永振一郎・湯川秀樹、昭和44(1969)年、尚学図書、pp.333-6、所収
※カラーフォントは引用者による
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