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2022年11月12日 (土)

Failure is a part of learning / 失敗は学びの一部である


James Dyson, Invention, A life of Learning Through Failure, 2022, Simon & Schuster, pbk
ジェームズ・ダイソン『インベンション 僕は未来を創意する』川上純子訳、2022/05/24、日本経済新聞出版

We need the visceral experience of trying something out to understand and to be convinced that we are doing this the right way for us. Learning by trial and error, or experimentation, can be exciting, the lessons learned deeply engrained. Learning by failure is a remarkably good way of gaining knowledge. Failure is to be welcomed rather than avoided. It is a part of learning. It should not be feared by the engineer or scientist or indeed by someone else.(p.24)

自分に合った方法だと理解し納得するためには、実際にやってみて、身体で感じる体験が必要だ。試行錯誤、あるいは実験による学びは刺激的なものだし、学んだことが深く根付く。失敗からの学びは、知識を得るには際立ってよい方法だ。失敗は、避けるどころかむしろ歓迎すべきものだ。失敗は学びの一部である。エンジニアであれ科学者であれ、もちろんそれ以外の誰にとっても、恐れるべきものではない。(訳書 p.27)

※参照 失敗からしか学びは得られない/We can only learn from our mistakes: 本に溺れたい

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コメント

私は「学校」にも、希望はあると思いもします。

効率的に「読み書きそろばん」を習得できる・そこそこ自分や家族と異質な人たちや気の合う人たちと出会い、一時を共にできる。
なんなら、それ以上の知識を習得し蒙を開ける。


結構貴重で大事と思います。個人にも社会にも。


が、
今のように死人や精神疾患患者続出で
「学びに行くのか、死にに行くのか」わからん状態
をなんとかしないと、話にならんところまで来ているのもかもしれません。


私は自分が発達障害の手帳持ちなので、学生時代は、「長すぎる共同生活」が苦しくて溜まりませんでした。

多少のいじめも受けてましたが、あからさまにいじめ加害者を怨む気もないですが
「もっと生活也精神に余裕があれば、きっと私をイジメる気など起きないだろうな」
って思うことが当時も、卒業して同窓会で出会っても思いました。私らの頃でも教師は多忙で、今はそれをはるかに凌駕する多忙さと聴きます。
生徒も教師も忙しすぎて「心が亡くなる」人が続出している様相・・・。

余りに
「共同生活に適応するのが絶対で、神聖にして犯すべからず」
だったのが、根本的に教育が狂気にかわった一因と思います。
その辺は内藤朝雄さんとかが論じてますよね。

キューバの学校とか、寺子屋とか、いいな・・・て何となく思ったりします。

投稿: 遍照飛龍 | 2022年11月15日 (火) 12時21分

遍照飛龍 様
コメントありがとうございます。

私は、仕事で小中高生たちに日常的に接します。その様子から、彼らの「学校暮らし」がhappyなのか、unhappyなのか、察しの悪い私には、正直なところよくわかりません。コロナ休校で、休みが続いていた頃、学校に行けないことが原因で、メンタルのバランスを崩していた子たちもいました。その一方で、コロナとは(たぶん)関係なく、学校に行けなくなってしまっている子たちいます。

近代 modernity の誕生とともに登場した、会社、工場、学校、に、制度的な疲労がきていて、それらが人々の「幸福」にあまり貢献できなくなっているらしい、ことは否定できない。ただ、今の学校制度を無くしたとして、どのような代替制度があり得るのか。それとも、これは、「学校」だけの問題ではなく、「近代 modernity」そのものの金属疲労で、いち「学校」だけをいじくれば済む問題ではないのか。だとすれば、大人たちはどうすれば良いのか。思い迷います。

投稿: renqing | 2022年11月13日 (日) 18時47分

孫子の言い草ではないですが「少し、小競り合いをして、相手の有余不足を測る」と。

失敗も、それ自体のことや自分の有余不足を知るための判断材料になります。

大事なことです。

けど、今の世の中は、学校でもその失敗ができない。
まあ学校の場合は「連帯責任」とかでの指導上の損耗だけでなく、同級生からの圧力・脅迫も関わってきて、薄氷を踏むように生活しないといけないですからね・・

まあ、だから
「学校に行って心を病んだり殺されるなら、行かずに生き延びた方が良い」
って私は思います。
生きてりゃ、まだ学べる。でも死ねば、再学習できないし、心が病めば、再学習も結構大変だからね・・。

投稿: 遍照飛龍 | 2022年11月13日 (日) 11時04分

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