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2023年8月12日 (土)

「鐘」と「撞木」の弁証法、あるいは、プロンプトエンジニアリング(2)

弊記事、「鐘」と「撞木」の弁証法、あるいは、プロンプトエンジニアリング: 本に溺れたい

に、コメントを頂きました。その返信を書いているうちに長くなってしまいましので、改めて記事化すことしにしました。

 

遍照飛龍 さま

コメントありがとうございます。

linkして頂いた記事ですが、私も拝読しました。その記事中に、

>今井 むつみ慶応義塾大学環境情報学部教授によると、簡単な分数が分からない落ちこぼれ小学生と最新型ChatGPTが同じ欠陥だと指摘していた

とあります。上掲の弊ブログ記事に引用しましたように、
今井むつみ・秋田喜美 著『言語の本質』2023年5月中公新書

を、私も読んでいます。

私が理解したところでは、ご紹介のリンク先引用記事の、今井・秋田著書の当該箇所の理解は、不適切です。そもそも文中に、「落ちこぼれ小学生と最新型ChatGPTが同じ欠陥だ」という文言は存在しません。今井・秋田著書はこう記述しています。

「調査結果からわかったことは、非常に多くの中学生が1/3、1/2のようなもっとも基本的な分数の意味を理解していない。つまり分数の記号を接地していないということだった。そのため中学生になっても、基本的な分数ですら、その意味を理解できていないのである。
 小学生のときに1/2のような基本的な分数の概念を接地できなかったため、上記のような初歩的な問題すらわからない中学生。それに対して、記号一つひとつの意味はまったく接地していなくても、どんどん概念を学習し、問題を解き、(少なくとも表面的には)間違いない答えを出力できるAI。
 人間は、記号が身体、あるいは自分の経験に接地できていないと学習できない。かたやAIは大量の(そして誤りのない良質な)データを受け取れば受け取るほど、記号から記号への漂流を続けながら、知識を驚異的なスピードで拡大し続けることができるのである。ただ、重要なことは、誤りのない良質なデータを作るのは人間だし、そのデータを学習に使うようAIを誘導するのも人間だということである。人間とAIの関係については今後本当に真剣に考えていかなければならない。」
今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質』2023年5月中公新書、p.192

今井・秋田氏の該当箇所の議論は、共通の「欠陥」などとは言っていません。認知科学における「記号接地問題」の文脈において議論しています。要約すれば以下のようになるでしょう。

《子どもが、小学生のとき「分数」という「概念」を学習する際、「記号接地」できてなければ、中学生になっても根本的に「分数」を理解できないままだ。一方、AIは機械なので、そもそも記号接地できないにも関わらず、現代最先端のAIは、ほぼ完璧な和文英訳を出力する。これは真剣に考えなければならない今後の大問題だ。》

これが、この箇所での今井氏・秋田氏の議論です。行論としては、小学生/中学生における「記号接地問題」は否定的文脈、AIにおける「記号接地問題」はむしろ肯定的文脈です。

これでは、リンク先記事の筆者である宗純氏も、AIを笑えません。宗純氏も、AIのように《文脈》を読み間違えているわけですから。

AI(=機械)の出力文書も、人間の文章も「眉に唾を付け」て読む必要が出てきた、という意味で、AIも人間に一歩近づいたことが、ChatGPTの《衝撃》と言えるのではないでしょうか。

ちなみに、私も職業柄、小学生から高校生まで数学も教えています。

その経験から言えることは、「分数」概念は、かなり難しい、高度な概念(記号)だということです。分数の足し算などの「通分」計算など難なく正解できる大人でも、それを「言葉」で小学生に納得させることは、その方面の経験者でない限りまず無理です。

したがって、誰がやっても難しい知的作業なのですから、手を変え品を変えて、多少時間をかけてやるしかありません。

「教科書が読めない」、「分数がわからない」子どもへの対策は、少人数(15人以下)教育、が妥当な解決策でしょう。これくらいの規模なら、個々の子どもに教師が応分なコミットする(記号接地する)ことが基本的に可能です。

今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質』2023年5月中公新書

については、日を置かずに書評を弊ブログに掲載したいと思います。

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