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2023年12月31日 (日)

木村敏「境界としての自己」1997年/Kimura Bin, The self as boundary,1997

表題作の出典:『現代詩手帖』1997年5月 40巻5号 pp.26-30、特集「境界のエクリチュール」

このエッセイは、木村敏の単行本には収録されていません。従いまして、知的に興味深い木村のこのエッセイを読むには、図書館で雑誌バックナンバーを繰るか、古書店で古雑誌そのものを購入するしかありません。そもそもこのマイナーな雑誌を購読してなければ、その存在自体、知る由もないでしょう。私が当エッセイを知ったのは全くの偶然です。2012年大学入試センター試験「国語」に出題されたものを仕事で読んだからです(ただし簡約版)。埋もれてしまうのは極めて惜しいので、ここに完全版として公開します。30年も前の雑誌記事ですが、著作権関連者の方から削除クレームが届いたらそれに従います。

私の、このエッセイに対するコメントは、いろいろあります。「Mach bandsとidentity」「境界とW.Jamesのfringe」「Ortegaと私/私の環境」、etc. どれも数分で記事化できる代物ではないので、正月休み中にどれかpostできるよう頑張ります。とりあえず、このエッセイを年内に投稿することとします。

木村敏「境界としての自己」、1997年

最近嬉しいことがあった。私が京大の医学部で精神医学を教えていたころ、毎年京大の教育学部と京都女子大の臨床心理の大学院生をそれぞれ数名ずつ臨床実習というかたちで預かって、週に一回、私の外来診察を見学してもらっていた。そして診察が終わると、毎回いっしょに近くの京大会館のレストランへ行って、安い昼食をとりながらその日に診た患者についての話をすることにしていた。嬉しいことというのは、これが機縁になって、ある年にいっしょに実習していた京大の男子学生と京都女子大の女子学生が知り合って結婚することになり、その披露宴に招待されたことである。

その女性のほうから届いた招待状にはこんなことが書いてあった。「もしあの研修が病院の中だけで終わっていれば、私も研修と割り切って考えていたと思うのですが、毎回あとで京大会館へ行って昼食をいただいてから解散する……というのが私の中の何かを変えたような気がします。大げさにいえば、Bランチをご一緒させていただくことによって彼の人柄に触れるきっかけが生まれたと申せましょう。……。」

精神科の診察は、ある意味では医者と患者がお互いの自己の存立を賭けて対決する真剣勝負の場である。医者は自分にとっての他者である患者と、患者は自分にとっての他者である医者と、火花を散らして切り結ぶ。この火花の中から、やがて患者の治癒につながるような何かが、そして医者にとっては彼の精神科医としての成長をうながすような何かが生まれる。この何かが精神医療の真髄である。だからこれは本来ひとに見せるべきものではない。それを、大学は教育の場であるという特殊事情から、医学生や若い研修医にも見せるし臨床心理の実習生にも見せる。本来するべきでないことをしている緊張感、なによりも患者の前でその患者についての説明ができない不自由さ、それに私の「対人エネルギー」とでも言えるようなもののすべてが患者一人に注ぎ込まれてしまうという事情もあって、実習生との関係はかなり希薄なものにならざるをえない。診察がすんでからみんなでいっしょに食事に行くのは、診察室で実現できなかった教育的な雰囲気を少しでも埋め合わせようという気持ちからで、これは京大へ転勤する前の名古屋市大時代から私がずっと守ってきた習慣だった。

この教育的配慮が思いもかけぬほほえましい副産物を生んで、そこで偶然に出会った二人を結びつけてしまった。まさか私がそこまで深慮遠謀を働かせたわけではないのに、彼女の手紙に書かれていたとおりだとすると、食事をいっしょにすることによってなんらかの変化が生じ、実習中には触れることのできなかった彼の人柄に触れるきっかけになった、そして二人は愛しあって家庭をもつことになった、ということになる。いったいこの変化とは何だろう。

主体的な自己の形成に問題のある若い患者たちをみていると、家で家族ぐるみの食卓を囲む機会が極端に少ないケースの多いことに気づく。最近なにかと話題になっている拒食症や過食症の患者に、このようなケースが特に多いという指摘もある。朝早く出勤して深夜に帰宅する父親、共稼ぎで食事を用意できない母親、塾やクラブ活動で時間を縛られている子どもなど、一家団欒の食事時間をもてない理由はいろいろあるだろう。いずれも現代社会の構造に深く根ざした現象である。家族で食卓を囲むことと健全な自己形成とのあいだには、なにか深い関係がありそうだということが、ここへきてはしなくも露見したというべきなのだろうか。

人間だけでなくすべての生きものは、その環境との境界面で、環境との最適な接触を維持することによって生命を保持している。子孫を残すために配偶者を見いだして生殖や子育ての行動を行い、寒暑や風雨を避けるために住居を確保したり居住地を変えたりし、敵から逃避したり競争相手を駆逐したりするのも、生物一般の生命維持の目的に沿ったものである。しかしなんといっても生きものがその環境から栄養を摂取する食行動が環境との境界における生命維持のもっとも基本的な営為であることは、異論のないところだろう。

生きものがその生命維持の行動を遂行するのは、いうまでもなく個々の個体としてである。各個体はそれぞれ固有の環境との接点で、ときには同種他個体との協力によって、またときには同種他個体や異種他個体との競合関係のなかで、自己自身の生存を求めて行動する。その場合、ある個体と関係をもつ他の個体たちもやはり当の個体の環境を構成する要件となることはいうまでもないし、さらには当の個体自身の諸条件(たとえば空腹や疲労の程度、性的欲求、運動や感覚の能力など)も「内部環境」という意味で環境側の要件に加わってくる。そう考えると、個体と環境の接点あるいは境界というのがなにを指しているのかを一義的に確定するのはかなり困難なことになる。なによりもまず、個体自身を構成している諸条件がすべて環境ともみなされるなら、「個体」とはそもそもなにを指しているのだろう。ここでいわれる境界の「向う側」にあるのが環境であるのはよいとして、同じこの境界の「こちら側」にはいったいなにがあるのだろう。そこには単純に個体あるいはその有機体をおくことはできそうもない。

複数の個体の場合はどうか。話を簡単にするために、互いに協力関係にある二人の人間、たとえば夫婦の場合を考えてみる。夫婦であっても、それぞれが自分自身の固有の世界を生きている独立の個人どうしであることに変わりはない。私は私の子ども時代以来の経験と記憶が集積したいまの現在を生きているし、私の妻も同じことだ。これを単純に同化したり、いわんや交換したりすることはできない。しかしどんな夫婦でも結婚以来の、これまた他の夫婦とは根本的に違った、二人だけの共同の歴史をもっている。そしてそれによって、何かの事態に対して、とくに口に出して相談しなくても、無意識のうちにひとつのまとまった行動をとる習慣がついている。そのかぎりでは、夫婦をひとまとめにして一個の「個体」とみなしても差し支えない。それと同じことが家族全体とか、長年つきあっている友だちのあいだとか、共通の利害関係で結ばれたグループとかについてもいえるだろう。人間以外の動物の場合、たとえば魚や鳥の群、整然とした社会を作っている昆虫などについては、群全体がひとつの個体のように行動するというこの傾向がいっそうはっきりしている。

つまりこのような集団の場合でも、それがまとまった行動をとるのは、やはり個体に準じて考えられる集団全体の存続という目的がそこにあるので、個体が生存を維持しようとする場合と同じように、環境との境界面で最適の接触を求めているといってよい。そしてここでもやはり、この境界の「こちら側」に単純に集団全体というようなものをおくことはできない。第一、個体の場合と違って集団には環境とのあいだの物理的な境界線などというものがすでに存在しないのだし、集団を構成している複数の個体のそれぞれが集団全体にとっての重要な内部環境になっていることを考えてみても、ことはけっして簡単でないことがわかるだろう。集団を構成している各個体の行動は、けっして集団全体の行動に同化しつくされることなく、個体それぞれの個別的な欲求に対応してもいる。それぞれの個体がそれぞれの環境との境界面で独自の生命維持行動を営みながら、しかも全体としては集団の統一的な行動が保たれている。個別行動が全体の統制を破壊するような事態は、まず起こらない。

生物の個体とか、個体に準じて考えられる集団とかについて、それと環境との境界面における生命維持の営みが思いもかけぬ複雑な構造をもっていることは右に見たとおりなのだが、これがそれぞれに確固とした自己意識を持っている人間集団の場合となると、その複雑さも飛躍的に増大する。たとえば家族の場合、外部環境との接触面では比較的まとまった行動を示す家族でも、家族の内部では個人個人の自己意識と自己主張が動物の場合とは比較にならぬほど強く表面に出る。個人の個別的な行動が家族全体のまとまりを破壊するような場合もけっして稀ではない。ここでは、人間以外の生物にはでてこないような「私」と私以外の「他者たち」との対決が、集団としての家族のまとまりよりも明らかに優位に立っている。それと同じことが家族以外でも人間集団のあらゆる場面で見られることについては、いちいち例を挙げるまでもないだろう。

自己意識がどのような経緯で人間に備わったものなのか、それにはさまざまな仮説が可能だろう。しかしいずれにしても、それが「進化」のひとつの産物であることは間違いない。進化の産物だということは、生存の目的にかなっているということである。自己意識を身につけることによって、人間は環境との折衝の中で新たな戦略を手に入れた。ところが、元来は生存に有利であるはずの自己意識が、同じく生存を目的としているはずの集団行動と、ときには真っ向から対立することになる。ここに生物としての人間の、最大の悲劇が潜んでいるのだろう。自己意識という人間の尊厳に、それ本来の意味を取り戻させるためにはどうすればよいのか。

「私」の自己意識は単なる個体の個別性の意識ではない。個体のそれぞれが自分は他の個体と別個の存在だということを認知する程度の意識なら、おそらく他の多くの動物にも備わっているだろう。明確な個体識別能力を持っている動物は少なくないし、他個体の個体識別と自己認知とは同じ一つの認知機能の両面である。それと違って、人間は自分自身をほかならぬ「私」として意識し、この一人称代名詞で言表される存在に、他のすべての個体とは絶対的に別次元の(他のもろもろの個体間の差異とは絶対的に異質の特異な差異でもって他者から区別される)唯一無二の存在という特権的な意味を与えている。「私」というのは、いわば等質空間の任意の一点ではなく、むしろ円の中心にたとえられるような、それ以外の一切の点と質的に異なった特異点である。

このような「私」としての自己と他者たちとのあいだにも、精神分析のいう「自我境界」という形での境界線を考えることはできる。ふつうにいわれる「自他関係」とは、この境界線上でかわされる心理的な関係ということだろう。そこではやはり境界をはさんだ二つの領域が想定されていて、他者は外部世界に、自己は内部世界におかれることになる。しかし、そのようなイメージは、特異点としての「私」という自己を考える場合には適切ではない。「私」が円の中心だとするならば、私以外のすべての他者は中心の外にいることになる。「私」自身ですら、これを意識したとたんに中心から外へ押し出される。しかし中心には内部というものがない。あるいは中心それ自身を「内部」と見るなら、中心は「内」と「外」の境界それ自身だということになる。「私」と他者との関係もそれと同じで、「私」は「内」でありながら「内」と「外」の境界それ自身でもあるという非合理な位置を占めている。「私」とは、実は「自我境界」そのもののことだといっていい。

等質空間に引かれた境界線と違って、生命空間における個体と環境の境界は、その「こちら側」にあるはずの「内部」をもたない。同じことを別の言い方でいうなら、生きものそれ自身とそれ自身でないものとの境界そのものとして、この境界を生きている。この自己と他者の「境界」を、生きるだけでなくはっきり意識するところに、人間的な自己意識が生まれる。そしてこのことは個々の個体だけでなく、集団全体についても同じように言える。人間の場合、「私」だけでなく「われわれ」もやはり他者との境界を生き、そしてそれを意識している。

生命の営みは、これを物理空間に投影してみると、すべて境界という形をとるのではないか。逆に言って、われわれの周りの世界にあるすべての境界には(空間的な境界も時間的な境界も含めて)そこにつねに定かならぬ生命の気配が感じられるといっていい。この気配こそ、境界というものを合理的に説明し尽せない不思議な場所にしているものなのだろう。境界とはまだ形をとらない生命の(ニーチェの言葉を借りれば「力への意志」の)住みかなのではないか。

食事の話に戻ろう。食行動は生命のもっとも基本的な営みである。食事を共にすることによって(「同じ釜の飯を食う」ことによって)たまさかに出会った人と人とがひとつの生命集団に統合される。「われわれ」という拡大された私的世界が形成される。もちろん、強大な自己意識を備えた人間のことだから、この集団の中でも「私」と他人との境界がかき消されることはありえない。しかしそれは、なんら生命活動をも共にしていない集団と較べれば各段に強く意識されることになるだろう。

現代の社会は、このような生命空間を加速度的に等質空間に近づけつつある。生命に根ざした非等質的な場の中心という特異性が失われ、「私」はかろうじてヴァーチャル・リアリティの中での全能者としてしか私的世界を保ちえない。「われわれ」も、カルトや全体主義の形で仮想敵を設定することによってのみ、かろうじて閉ざされた私的幻想を共有している。家族はもはや経済単位、そしてそれと密接に関連した居住単位以上のものでありえなくなってきている。生命それ自身ですら、一方では分子生物学によって微小生命機構にまで解体され、他方では「人工生命」という名のコンピュータ・シミュレーションと、次にはそれを生きた生命体の理解に再適用する「バック・シミュレーション」ともいうべき操作によって、いっさいがコンピュータブルなネットワークに還元されようとしている。そこには居場所としての境界を生きる余地など、全く残されていない。

それでも人間は生きようとする。生きるためには食べねばならぬ。当今の食事は、ファスト・フード・レストランで大量生産された均質の簡易食によって代表されている。これに対して、よそとひと味違った「おふくろの味」のもつ求心力は、単なるノスタルジア以上のものだろう。食卓共同体の体験は、始原の「われわれ」性を回復し、外部との境界を「私」たちの、そして自己自身の居場所として生きさせてくれる、最上の、しかもおそらくもっとも平易な道なのではないか。家族が食卓を囲んで団欒の一刻をもつこと、それはけっして精神科患者に対する処方だけにはとどまらないはずである。

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