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2024年9月16日 (月)

リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋〔書評①〕

※詳細目次は本ページ最下段をご参照ください。

◆難しい書
 本書は、《入門 Introduction》と書名にありますが、内容的に、超領域的、高度で、難解な著作です。抽象度が高く、対象への方法論(approach)を厳密に定式化したうえで、理論的に行論が進みます。

 歴史書(というよりは歴史社会学)のはずなのに、なんでそんなに理屈っぽく、小難しいかと言えば、第一に本書の元になった講義が、大学院生、研究者向けのセミナーだったからです。第二に、著者が、これまでの膨大な研究成果を圧縮して summarize しようとしたからです。なにしろ、著者の《ナショナリズム三部作》と称される単行本は次のようなものなのです。

Greenfeld, Liah, Nationalism : five roads to modernity, Harvard UP, 1992, xii, 581 p.
Greenfeld, Liah, The spirit of capitalism : nationalism and economic growth,Harvard UP, 2001, xi, 541 p.
Greenfeld, Liah, Mind, modernity, madness : the impact of culture on human experience, Harvard UP, 2013, x, 670 p.

 以上の三部作の、まえがき、本文の合計は、1,825ページに及びます。この大作シリーズは約10年間隔で出されています。そして、その合間に、単行本、論文集、編者本、を8点世に送り出していて、その他に、絵本/童話(あるいは寓話?)を5点、出版するという驚異的に多産、多作の人物です。彼女を評するに、"one of the most original thinkers of the current period(現代における最も独創的な思想家の一人)"とあるのも、頷かざるを得ません。

 これまで、もっぱら専門家向けに「ナショナリズム」論を公表していたリア・グリーンフェルドが、より広い読者層に向けて書き下ろしたのが本書です。英語版で160頁ほどですが、彼女の膨大かつ広大な議論の、簡略版というより濃縮版となっています。天才(と言っても過言ではない)リア・グリーンフェルドが専門家を説得するために1800頁かけた内容を、非専門家向けに、その百分の一で「圧縮」して書き下ろしたのですから、難解にならない理由がありません。

 訳者の労を多とするに全く吝かではありません。しかし、正直申し上げて、小著ではありますが、分野を異にする優れた専門家がチームで訳出するべき類の本であると私は判断します。

 その証拠にこの難解な訳書に、訳注がありません。私の最初の違和感がこの点にありました。本訳書中の幾つかの重要な語彙で訳注を確認しようとしたらそれが無い。

 とりわけ、問題なのが、'popular sovereignty'を「普及的主権」と訳出していることです。日本におけるこれまでの、法思想史学、政治思想史学においては、通常「人民主権」と訳されて来た重要な語彙です。そして、この語は、Rousseau の、『社会契約論』1762年、の'souverainete populaire'に端を発しています。これが英語圏に流入する際、英訳されて'popular sovereignty'になったという経緯があります。その流れで、法学/政治学分野では、「人民主権」という訳語で定着してきました。従来の訳に不満が発生して、新訳を出すことは、学問的にあり得ることです。従いまして、訳者なりの学的根拠があれば、新しい訳語を提出することは知的営為として当然です。そしてそのような但し書きは、普通「訳注」として別記されてきました。それが本訳書のどこにも見当たらない。改めて読み直すと、一応、張 彧暋氏の解説(本訳書p.234)にあります。

普段「人民主権」と訳されることが多いが、ここでいう「ポピュラー」は、むしろ全員、すなわちネーションに属する全員が主権をもっているということである。

 その一方で、本訳書の、p.19にはこうあります。

しかし「人民〔原書でも"people" 引用者註〕」が「ネーション」と同一視されるや、人民の地位は象徴的な意味において向上した。かつての下層階級にはエリートの尊厳が備わり、エリートの権力が授けられた。主権を有する平等な共同体で上流階級と下層階級が統合され、すべての成員は基本的に身分の交換が可能になり、その結果、社会の実体はまったく違う形で表現されるようになった。こうしてナショナリズムは誕生した。

 原著者グリーンフェルドの意図は、かつて差別語だった "people" が統治者階級であるエリート集団 "nation" と等値されることで、エリートの尊厳を持ち、共同体の意思決定に参与することができるようになった、と言うことでしょう。従って、かつて差別された人々が「主権者」になったという歴史のアイロニー、歴史の逆転が「ナショナリズム」という言葉/概念の誕生に刻印されているわけです。そうであれば、「popular sovereighty」を「普及的主権」と訳しては、語感にエッジが効かず、なんとも平和なものとなってしまいます。「人民」なる語は、戦後左翼やその一党の学者たちが常套語としていましたから、その語感を訳者は忌避したのでしょうが、むしろだからこそ令和の現代にアイロニーとなるのではないか、と私などは考えます。「popular sovereighty」に、「普及的主権」などという新奇で珍妙な訳語をあてる積極的意義を私は感じません。むしろ、原著者の行論の理解に有害です。従来通り、「人民主権」で、むしろ良い、と考えます。

 原著者 Liah Greenfeld の「日本語版への序文」の日付が2020年となっている(原著者の個人サイトに英文オリジナルが掲示されています)にも関わらず、本訳書の同文には日付が印されておりません。原著者の「日本語版への序文」寄稿から4年後に日本語訳の上梓という事態には、本書の訳出への苦労が偲ばれますが、この間、「訳注」の作成も試みていたのではないか、と憶測します。本書は、社会科学全般を跨ぐ学際的で、高度な内容が詰まっていますから、訳註は必須ですが、本格的にやろうとすると、かなりの分量になることが予想されます。それでは「入門」書としてバランスが悪く、ビジネス的にもリスクが高い。そこで、詳細な訳註は断念し、「解説」を代替挿入したのであろうと想像します。それにしても、解説者は原著者の講義を直接受講(香港嶺南大學)した、いわば弟子筋に当たるのですから、解説者が直接訳者となるか、せめて監訳の責を負うのが妥当だったのではないか、と考えます。それを社会科学のアカデミックなトレーニングをされていない翻訳家に翻訳の責を丸投げし、自らは訳に関与しない形にする、というのは、褒められたものではないと愚考します。

 少し、腹が立ったので、言わずもがな、のことで、本書の内容のレビューに入れませんでした。実質的なレビューは、へ続くことにします。

本書の原タイトル
Greenfeld, Liah, Advanced introduction to nationalism, E. Elgar, 2016(Elgar advanced introductions/大学院生向けのテキストシリーズ), x, 143 p.

リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋

【目次】
日本語版への序文
まえがき
第1章 序論――ナショナリズムとモダニティ
第2章 ナショナリズムはどこから来たのか?
 文化・心理学・政治学
 ナショナリズムのタイプ
第3章 政治イデオロギー化するナショナリズム
 基本的な語彙─ネーション、エンパイア、ステート
 科学と啓蒙主義
 全体主義への道
 マルクス主義とナショナリズム
第4章 ナショナリズムと近代経済
 「大きな例外」─オランダ
 社会主義vs.資本主義─ロシア
 グローバリゼーション─日本
 ナショナリズムを普及させる手段としての資本主義─ドイツと中国
第5章 ナショナリズムと近代のパッション
 ナショナリズムと感情のレパートリー
 機能性精神疾患
 近代政治の二重らせん
第6章 結論――ナショナリズムのグローバリゼーション
BOX
2・1 尊厳
2・2 アイデンティティ
3・1 愛国心
3・2 言語の力─排他主義的なネーション意識
3・3 ナショナリズムと暴力
4・1 ナショナリズムと経済成長の「自然進化」理論
4・2 個人主義的ナショナリズムと経済的個人主義

燃える宝石のような煌めき─『ナショナリズム入門』解説(張 彧暋)

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コメント

誰かの説かわかりませんですが

「朝鮮半島の国家意識は、実は秀吉の朝鮮進攻によって生まれた」


て説を見たことがあります。

秀吉軍の進攻には、国民だけでも国家や為政者・セレブだけでも対抗できないので、協力しないと対抗できなかった。

その中で「国民意識」の芽が生まれ、同時に「王や為政者」の資格に対して、庶民や為政者の末端の官吏や下手したら王族・貴族も厳しく持つようになった。


そんなことを思い出しました。

日本って結局はそういう経験が無かったのですよね・・

投稿: 遍照飛龍 | 2024年9月16日 (月) 19時54分

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