科学方法論

2008年7月18日 (金)

思想史研究における生産者主権と消費者主権

 思想史の研究には、大別して二つのアプローチ、ないし目的があるだろう。

 一つは、「思想」史である。つまり、歴史的に実在したある特定の人間の思惟の過程、その帰結、達成、影響を、できる限り内在的、詳細に理解した上で、研究者の立場から現代的意義を考えること。

 二つめは、思想「史」である。ある特定の時、場所に芽生えた、ある個人の思惟が、いかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで誕生し、そしていかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで人々に受け入れられ、流通し、変容していったのか、を可能な限り理解したうえで、その一連のプロセスが、研究者の生きる現代にとっていかなる歴史的意味を有しているのか、を考えること。

 以上の二つである。そして、いささか唯物的(「唯物論」的ではない!)謂いにはなるが、前者を、「思想の生産者主権」アプローチ、後者を「思想の消費者主権」アプローチ、と名づけてみよう。

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2008年6月 4日 (水)

セコイアはいかにして水を100m以上持ち上げるか?(2.1)

 先の記事関連で、ネットで追加調査をすると、流体力学の専門家の論文がPDFで2編ほど見つかった。下記↓。

1)細川巌「植物の吸水作用の物理」

2)日野幹雄「植物の気孔蒸散の流体力学」

 物理学者の手腕でこの問題にアプローチすると、前回記事の教科書的説明がいかにも緻密さに欠ける議論であることを悟るに至った。特に、1)での、

「 しかし、この負圧がそのまま水を運ぶ幹の導管にまで続いているのかというと、問題がある。先日、農工大の植物学の先生にお話を聞いたのであるが、導管は生きた細胞と違って、細胞内にあるような溶質を含まず、普通の水の運送だけが行われているということである。これを聞いた途端、私の既成観念はかなり変わった。水が細胞と導管の接続部を通るときには、上記と逆の現象が起き、正圧がそこに発生することになる。そうすると、維持されていた水の負圧はそこで帳消しになるか甚だしく減殺され、上向きに昇っていくことなどは期待できなくなる。」上記、PDF、p.2

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2008年5月25日 (日)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(4・結語)

T_NAKAさん、他の皆さん、どうも。再説です。

■対角線論法におけるカントールの意図、戦略

 カントールの論証の意図は、

「ある集合とそのべき集合は、異なる濃度をもっている」

または、

「ある集合とそのべき集合は、一対一対応しない」

とうことです。

 そのうえで、「ある集合とそのべき集合は、一対一対応する」と仮定して、矛盾を引っ張り出す、という戦略です。

 そして、一対一対応原則の言い換えが、先のイ)とロ)に他なりません。

■なぜ、この表がまずい、あるいは合理的でないか

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2008年5月24日 (土)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(3)

 対角線論法に基づいて、この表を読んでみます。

            A1     A2       A3     A4

  1  1∈A1  1∈A2   1∈A3   1∈A4

    2  2∈A2  2∈A2   2∈A3   2∈A4

    3  3∈A3  3∈A3   3∈A3   3∈A4

  ・・      ・・      ・・             ・・           ・・

この表は、

 イ)同じ部分集合を二度数えない。すなわちiとjとが異なっていればAi≠Ajである。

 ロ)数えもれがない。つまり、すべてのAの部分集合は必ずA1、A2、A3、・・・のなかに出てくる。

という条件に従って、読まなければなりません。

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2008年4月28日 (月)

エートスの進化( The evolution of ethos )(2)

 エートスが進化するとしたら、それは社会に受け入れられているエートスの交代だと前回述べた。

 つまり、エートスXがエートスX+やエートスX-に歴史的に遷移したならば、それはエートスXが、X+やX-に変容したのではなく、異なるエートスであるX+やX-に切り替わったのだ、とみなせるし、それが歴史の進化的理解にも合致する、ということだった。

 では、エートスXが存在して、そのT歴史時間後にX+やX-が出現するとしたらどのような経路が考えられるだろうか。契機は三つある。1)異なる預言者の出現、2)エートスXをもたらした預言者x自身の思想変化、3)預言者xの思想が、ある社会層のエートスXとして受け入れられる際の変形、である。

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2008年4月26日 (土)

ある書評

 下記は、私が勧めて、知人に書評を書いてもらったものである。この人物については、本記事の最後に種明かしをするので、まずは、全文を読んで戴きたい。

書評
戸田山和久『科学哲学の冒険 -サイエンスの目的と方法をさぐる-』NHKブックス(2005年)
********************************************
 この本は、主に大学一、二年生向けの「科学哲学」の入門書だ。まず、「科学哲学」という言葉を聞いて、理系の「科学」と文系の「哲学」が一緒になったこの言葉に疑問を持つ、あるいは難しそうだ、とどこか敬遠しがちになってしまうかもしれないが、本書は対話形式で、なかなか読みやすく書かれている。

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2008年4月25日 (金)

エートスの進化( The evolution of ethos )

 進化理論は、変異と選択という二つの概念装置から構成されている。

 変異とは、ある種が何らかの要因で変ることであり、選択とはその種の持つ形質がその種が生きている局所的世界、つまり生活環境にうまくフィットしているため生き残る、という意味である。

 そして、この二つの事柄は全く独立したことだ、というのがダーウィン進化論の核心だ。その二つの組み合わせで進化という現象、つまり「1世代を超える時間的なスケジュールでの生物の(遺伝的な変化を伴う)形質の時間的変化」*が起こるのだとする。

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2008年4月18日 (金)

ダーウィン進化論の本質(The essence of Darwinism)

**********************************
 プラグマティスト、ジェームスはダーウィン進化論の良き理解者でもあった。彼は、当時広く流布していた、ハーバート・スペンサー流の「まちがったダーウィン主義」を批判していた。スペンサーは、進化が自然環境(風土)、祖先の条件などに起因するとして、社会が変化を決定するという主張がダーウィニズムの本質なのだとしていた。ダーウィンはあらゆる自然の変異が、無方向で無目的であることを積極的に肯定していた。またダーウィンの「選択」の概念には起こったことを後から(ア・ポステリオリ)記述する以上の意味は含まれていない。ダーウィンは、誰も選択しない、ただ結果としての選択が起こるだけなのだ、と言ったのである。しかしスペンサーはダーウィニズムを社会決定論的に読みかえていた。

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2008年3月26日 (水)

リンゴ8個とミカン6個(2)

 さて、前回は「引き算」だった。実はあれから「足し算」を小6の男の子にやってもらっていた。

「あのさ、この前ね、小1の女の子にやってもらったんだけど、ちょっと考えてみてくれない。リンゴ8個とミカン6個を足すと何個になる?」

 相手は、不審な顔をしていたが、素直に、

「14個。」

と答えてくれた。そこで、私は畳みかける。

「そうかぁ。計算はあってるね。じゃぁ、聞きたいんだけど、14個って、何が14個あるの?」

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2008年3月21日 (金)

bounded rationality と intuitionism

 bounded rationality(限定合理性=合理性の限界) と intuitionism(直観主義、この場合は数学的直観主義を指す)は、ウラ、オモテの関係になると思うのだが、今の私の、少々疲れた頭脳と体力では、考え抜けない。

 ただ、アイデアめいたものを記しておけば、それを整理するのに、渡辺慧(Watanabe, Satoshi)の議論、とくに、認識学的相対性 epistemological relativity 、という議論は、役に立ちそうだ。

そういうわけで、メモ代わりとして、当blogに残しておくことにする。

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2008年3月20日 (木)

リンゴ8個とミカン6個

 たまたま、小学校1年生の女の子の算数の宿題をみる機会があった。

 その第1問に、

「いま、リンゴが8ことミカン6こがあります。どちらがなんこおおいですか。」

とあった。解答欄を見ると、

 (しき)8-6=2   (こたえ)2こ

と、書けている。ただ、問題には「どちらが」とあるので、「どっちが2こ多いの?」と尋ねると、どうもわからない様子。

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2008年3月13日 (木)

カテゴリー「科学方法論」を作成

 このblogでは、私の関心から、社会科学にしろ、自然科学にしろ、方法論関連の記事を比較的多く書いてきた。

 そこで、それらを統一的に分類するカテゴリーを思案することにした。最初、「科学哲学」としようかと考えたのだが、そうすると社会科学に関連がないと思われる蓋然性もあるかと思い直し、結局、表題のように「科学方法論」とした。

 ご参照戴ければ幸甚。

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2008年2月15日 (金)

「困ったこと」から考える(2)

 つまり、「困ったこと」の起源には、内部的な要因と、外部的な要因とがあるだろう、という話だ。

 内部的要因は、当然、それに対処するのに制御可能性の高い手段を見つけやすく、比較的低コストで削除でき、外部的要因はその逆で、相対的に高い対処コストが必要と予想される。

 ただし、ここからが難しい。

 たいていの普通の人間や組織は、「困ったこと」が生じたとき、その原因が己のどこにあるのだろうか、とは、なかなか考えない。したがって、まずは、「自己」ではなく、(自己の外にある)「世界」のどこに問題があるのだろうか、と検討を始めるだろう。

 そして、その場合は、解決コストの高さに歎息し、結局「困ったこと」を我慢できるだけ我慢し、やり過ごせるだけやり過ごす、という最悪の「解決策」にはまり込んだりする。

 なぜ、「世界」ではなく、「自己」の側に、「困ったこと」の原因があると考えることが難しいのだろうか。

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「困ったこと」から考える(1)

 個人でも、組織でも、はたまた国家でも、順風満帆に日々を過ごせることは、そう滅多にない。大抵は、なにかしら「困ったこと」に頻々として遭遇し、それとの悪戦苦闘の連続というのが世の実相だと思われる。

 当然、誰しも「困ったこと」に逢着すると、その解決を意図する。そして、考えたり、自分なりに幾つか解決策を試みたりする。

 すると、その「困ったこと」の「困った」度が、当の解決策の効果によって低減する場合がある。また、その「困ったこと」自体の何らかの時季性により、自然に「困った」度が低減して、とりあえずやり過ごせるようになったりする。

 ここで試みるのは、この「困ったこと」からなにか教訓を引き出せないか検討することである。

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2007年11月19日 (月)

Hume - Hayek conservatism の理論的欠陥 (4・おまけ)

 1点、言い忘れたことがあるので。

 Hume や  Hayek に限らず、 conservatism は、歴史の漸進性を強調する。改善の余地はいくらでもあるが、革命といった大きな変化は無理だし、実施しても必ず失敗する、というわけである。

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Hume - Hayek conservatism の理論的欠陥 (3・結語)

 すでにこの話題も長くなってしまい、私も少々飽きてきた。この辺でザックリ結語としたい。

 人間の行動と社会の歴史的遷移をいくつかに図式化してみる。

 まず、諸個人の行動。

 Ⅰ.目的 → 手段(選択)→ 行動

 次に、社会の時間(歴史)的遷移。

 Ⅱ.原因 → 結果

 Weber の社会科学方法論は、{目的 → 手段(選択)}を{原因}に、{行動}を{結果}に読み替え、ⅠをⅡに組み込む。これで、科学方法論として、因果論が使えることになる。

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2007年11月17日 (土)

Hume - Hayek conservatism の理論的欠陥 (2)

 前回は、いくらか話を急いでしまった。ここで議論を整理しよう。

 Hume→Hayek と流れる保守主義理論とは、私見では以下のようにまとめられる。

 人間の諸制度は、漸進的に善くなるし、漸進的にしか善くならない。人間の理性の限界のため、事前に善なるものが分からなくとも、事後的には少しずつ判明し、そして少しずつなら、限界ある理性でもそれらの善と悪を識別でき、そうやって人間は少しずつでも善なるものを選び取っていくはずだ。だから、結果として自生的(spontaneous)にゆっくり形成された人間諸制度のみが(人間理性の限界にも関わらず)優れた善なるものであると言えるのである。したがって、人間の理性を過信したために、より善なる人間諸制度全体を、包括的、事前意図的に作ることできるとか、事前合理的に善なるものを判断したうえで、それを人間社会全体に適用させることは可能だ、というのは、人間理性の驕り(arrogance)に過ぎない。そういうイデオロギーは、設計主義(constructivism)であり、人間社会に害悪のみもたらしてきたのであるから、少しでもその気配があるならば、徹底的に批判しなければならない。

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2007年7月 1日 (日)

物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

 F.Nakajima氏に、wikipedia の「科学的実在論」をご紹介戴いた。それに助けを得ながら、当座の結語としたい。

 戸田山和久氏の整理による二つのテーゼで考えてみる。

1)"独立性テーゼ"
「わたしたち人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだ」

2)"知識テーゼ"
「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」

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2007年6月25日 (月)

物理法則に物理量は存在するか(3.1)

F.Nakajima 様、コメントありがとうございます。

 さて、コメント戴いた内容ですが、重要な論点がいくつかありますので、順を追って、当方の頭の整理も兼ねて、コメント欄ではなく、記事として書いてみます。

1)wikipedia の「科学的実在論」をご紹介戴きありがとうございます。とても分かりやすく、こちらの考えを整理するのに役立ちました。

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2007年6月22日 (金)

物理法則に物理量は存在するか?(2.3)

 一応、話の整理のために、記事を書いてみる。

T_NAKAさんから、物理法則に物理量は存在するか(1)、のコメントで、

>そういった物理現象の理解の仕方自体が「the Artificial」であるというのなら、それはそれで一つの見解ではありますが。。

という発言を戴いてる。

 まさにその通り、である。自然科学も、人間という生物種が有する対「世界」認識のためのフィルターであり、「the Artificial 人工物」であると、renqing は考えている。

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2007年6月19日 (火)

物理法則に物理量は存在するか?(1)

 例えば、「質量保存の法則」。

 中学校の理科で習う。物質を燃やしても、なくなるわけではなく、その残った灰や煙、等をかき集めれば、燃やす前の質量を同じだ、という。では、その「質量保存の法則」そのものはいったいどこにあるのか。「質量保存の法則」の物理量保存の法則はあるのだろうか。

 物理量があれば(質量にしろ、エネルギーにしろ)、物理的に存在するといえ、物理量がなければ、物理的に存在する、とはいいにくいだろう。

 それにしても、物理的に存在しない代物で、物理学等の自然科学が記述されているというのもヘンな感じだ。

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2007年5月27日 (日)

「哲学の自然化」?(2)

「哲学の自然化」?で、

「天動説と地動説で、後者が科学的で真理だと誤解する向きは多いだろうが、この両者はある操作で補正すると、それぞれの座標空間上に1対1で対応する。1対1で対応するということは、数学的に等価だということだ。」

と書いた。これについて、意味がよくわからん、とのご指摘を戴いた。そこで、ちょこっと付け足す。

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2007年5月25日 (金)

「哲学の自然化」?

飯田 隆(編)『哲学の歴史 11 20世紀 2』中央公論新社(2007年)

 上記の本が面白いらしい。「哲学の自然化」で、哲学が脳科学に吸収合併されてしまう勢いなのだそうだ。

 別にそれは全く構わない。痴人の戯言にしか聞こえない哲学論議もある。今、カントの「優れた」解説書(というより入門書か?)を読み終わろうとしているが、どこがいいのかサッパリ分からない。筆者は書きながら改めて感動しているようで、こちらはシラケル一方。

 自然科学という考察法の優れた点は、その仮説性が他の学問領域よりよく見える点だ。だから、「哲学」が自然科学的アプローチにより、その仮説性がより明確になるなら、慶賀すべきことだろう。

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2007年4月14日 (土)

パース(Charles Sanders Peirce)のヘーゲル評(1)

「内的な必然的進化もしくは論理的模索は、どこにそれが導かれるのか予見することができず、そのコースの舵をとることもできないで、あらかじめ決定された進路の上を前進するのであるが、これこそ哲学の発展の法則である。ヘーゲルは、はじめて、世人にこれを理解させた。かれ以前には、論理学というものは思想の主観的指針や監視装置の役目を果たすことを念願としてきたのであるが、かれは、論理学をたんにそういうものにはしないで、それが思考の原動力になることを、しかもたんに個人的思考の原動力ではなく、討論、思想史、歴史一般、発展一般の原動力になることをもとめた。」
世界の名著59、「パース・ジェイムズ・デューイ」、pp.212-3、中央公論社1980年

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2007年3月 1日 (木)

おわび、あるいは、心身相関についての一考察(3)

 構成する命題は、こうである。

「身体の頑健さと思慮深さは反比例する」

 つまり、身体が頑健(システム論でも robust という)であればあるほど、ものごとを深く考えない傾向が強い、ということだ。思想家や文学者に、「元気ハツラツ!!」というタイプがいないのも、首肯できそうだ。

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2006年10月10日 (火)

ジョゼフ・ニーダム「人間の法と自然の法」(1)

 表題は、下記からのもの。

ジョゼフ・ニーダム  『文明の滴定』法政大学出版局1974(叢書ウニベルシタス)
第八章「人間の法と自然の法則」(p.327)

原本は、
NEEDHAM, Joseph. The Grand Titration : Science and Society in East and West.  Allen & U (1979/11/1)
8. Human Law and the Laws of Nature

 一応、読了したのだが、今一つ、よく理解できない。前半部のゴタゴタのせいだが、これは訳者が若干混乱していて、ニーダムの文脈をとり損ねているからではないか、と少々疑っている。

 ということで、再度、読んでから、論評を書くことにする。羊頭狗肉。ごめんなさい。

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2006年8月17日 (木)

自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について

 18世紀以降、急速に自然法の観念が色褪せてしまったのはなぜか。それは、「社会」の理論家達が、17世紀末のニュートンによる力学的宇宙観の大成功に幻惑され、我こそは、「社会」における法則を発見するニュートンたらん、としたことに負う。2人の論者の言を引こう。

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2006年5月30日 (火)

フロンガス問題と知識理論

 フロンガス問題と知識理論(または認識論)にいかなる関連があるのか。これが多いに関連あり、と私は見ています。

 フロンガスは、無色、無臭、無毒、で実験室レベルでは理想的な、媒質(大体は冷媒)でした。事実本当にそうだった訳です。「これはいいや」と言って、世界中で使われるのですが、ところが、大気中に放出された塩素化合物であるフロンが紫外線を受けて塩素を発生させ、その塩素がO3からOを一つ奪い取る、というメカニズムで、オゾン(O3)層が破壊されてしまいました。

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2006年4月 9日 (日)

組織における世界像分業(2)

p.165
 世界像(Weldbild)とは、おおげさなことばであるが、すべてのひとはかれ自身の世界像をもっている。かれはこの世界像に基づいて、さまざまな出来事を秩序付け、問題を発見し、環境に働きかける。人間は、社会化の過程でこのような世界像の基礎を作り出し、その共通の世界像を手掛かりにして他者とコミュニケートする。ところで、組織はそれが専門化された職業人によって担われるようになると、かれらはたんに作業において分業するばかりでなく、世界の認識においても分業するようになる。すなわち、職業上の必要に応じて、課題を分割して負担し、協力するようになる。

p.166
・・・。成員がそれぞれ少づつ違う世界をカバーし、相互に協力することで、組織ははじめて、個人が認識する容量をこえる知識の獲得・利用が可能になる。

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2006年4月 8日 (土)

組織における世界像分業

 標題は、

複雑さの帰結―複雑系経済学試論
塩沢 由典
NTT出版(1997/06)
ISBN: 4871885178

中の、「5 組織における世界像分業」からとったものである。

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2006年3月20日 (月)

山田慶児 『朱子の自然学』 岩波書店(1978年)

山田慶児 『朱子の自然学』 岩波書店(1978年)

p.2
・・・。自然現象の認識のむずかしさは観測器械の製作のむずかしさにひとしい、といった意味のことばを十二世紀の思想家の口から聞くのは、やはり大きな驚きである。朱子が残した数多くの断片的なことばは、ひとりの独創的な自然学者がまぎれもなくそこに存在していたことを、わたしたちに証す。同時に、もしわたしたちが囚われのない心で朱子の思索のあとを、さらには同時代の科学者や思想家のそれをたどるならば、十一、十二世紀の宋代の中国において、すでに量的実験方法への自覚が成立していたのを、確認できるであろう。しかもそれは、要素還元論的自然観とはまるで無縁な土壌に、全体論的な思想の風土に成立していたのである。
 山田慶児 『朱子の自然学』 岩波書店(1978年)

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2006年2月15日 (水)

論理と因果(5・おまけ)

 おまけ。というよりは、言い訳。

 前回(4)で挙げた因果関係の例はあまり適切ではなかった。生物の機能を因果論的に説明しようとすると、どうしても、《進化》という思考枠組みを介在させることが必要となる。そして、 ここでいう《進化》とは以下のようなことである。

「1世代を超える時間的なスケジュールでの生物の(遺伝的な変化を伴う)形質の時間的変化」*

をいい、特に、<適応的進化 adaptive evolution> は、

「遺伝的変異に選択が作用して形質の時間的変化がおこるもの」*

である。

 《原因→結果》連関、《目的→手段》連関とが、《進化》とどのような関係にあるかは、科学論、ないし科学哲学での面倒な議論に行ってしまうので、またの機会に試みることにする。悪しからず。

*岩波理化学辞典 第5版、1998年、「進化」の項。

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2006年2月14日 (火)

論理と因果(4・結語)

 一つの例を出して、このシリーズを終わろう。

 健康ブーム(ある意味、病的か?)のおかげで、日本伝来の食文化、食材が見直されている。その中にワカメやコンブなど海藻類があるのをご存知であろう。

 で、そのヌルヌル状物質が考察の対象である。このヌルヌルが体に良いらしいとテレビ等で評判なわけだ。このヌルヌルの正体は、アルギン酸、フコイダン、という名の、水溶性食物繊維=粘質多糖類、ということらしい。

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2006年2月 9日 (木)

論理と因果(3)

 前回、関数(=写像)とは、

「二つの集合 X,Y があって,X のどの要素 x にも,Y の要素 y がちょうど一つ対応しているとき,この対応を X から Y への関数,または写像」

である、という定義を引用しました。

 一方、因果、ないし、因果関係を私なりに整理するとこうです。

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2006年2月 8日 (水)

論理と因果(2)

 藤原氏の文章を読んで前頭葉にストレスが蓄積したので、気分転換に少し書きます。

《関数とは何か》

「二つの集合 X,Y があって,X のどの要素 x にも,Y の要素 y がちょうど一つ対応しているとき,この対応を X から Y への関数,または写像といい,記号 f などを用いて,f:X→Y と書いたり,y=f(x)と書いたりする。」*

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2006年2月 2日 (木)

論理と因果(1)

 今、ちょっとした話題の本を読みかけている。某(元?)数学者の本だ。

 しかし、何かおかしい。彼は数学者なので論理の専門家だ。で、その彼自身が、論理だけでは世界は破綻する、という。ま、それはそれでもよい。ただ、彼が非難してやまない「論理」には、どうも異なるものが混在しているようだ。

 それは、この標題の「論理」と「因果」だ。彼の挙げる数学の証明などは、確かに正誤を確定できる普通の論理。一方の例の「春風が吹けば桶屋がもうかる」というのは、これは因果関係であり、時間の前後関係に着目している。この二つは、全く別種の概念枠組なのだ。

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2005年12月30日 (金)

「人間社会の自然論」Naturlehre der menschlichen Gesellschaft(改訂2006/2/12)

 この話題は、社会学史上のペダンティックな論点に収まらない、意外に深刻な意義を有している。

 キリスト教ヨーロッパでは、伝統的に、“人間は善悪を選び得る道徳的存在である”と考えられていた。その人間観が、人間を対象化し、“経験論的で、自然科学的認識でこそ把握可能な《もの》”とみなす、現代人の「科学的」人間観へ、初期近代から徐々に置き換わってきた。それを思想史として、近代自然法思想(グロチウスetc.)からアンチ自然法(ヒュームに代表される)思想への変貌として的確に描いてみせたのが、このゾンバルトの、「人間社会の自然論」‘Naturlehre der menschlichen Gesellschaft’だからである。

*参照
新明正道 『社会学史概説』 岩波全書(No.193) 1954、
中の
  4.経験的社会論の成果  pp.39 - 48

※少々、再改訂( 2006/02/12)。読み直したら、引用なのか、私の記述なのか不明だったので。 記事内容は私の記述で、文献は参照してほしい、とうことです。

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2005年12月15日 (木)

知識は脳の中にのみあるわけではない

 表題の記事を書こうとしていたのだが、風邪気味とちょこっと寝不足で頭が痛く、とりあえず、3題話、としておこう。

・J.J.ギブソン(James Jerome Gibson)          《アフォーダンス》
・A.ゲーレン(Arnold Gehlen)                       《負担免除》 
・J.v.ユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexküll) 《環境世界》

そして、これらのアイデアは、
・塩沢由典      《複雑系経済学》

と、おのおの一筋のつながりを持つ。

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2005年12月14日 (水)

exod-US氏へのreply

独裁者の支配から離脱・独立した分派グループの地上天国その後

 下記は、exod-USさんの上記記事に付けたコメントに、exod-USさんがreplyしてくれたので、それへのreplyを上記blog上のコメント欄に書こうとして、長すぎて拒絶(-_-;されしまったので、本記事としたものです。exod-USさんの記事、およびreplyにご関心の向きは、上記記事へ飛んで戴ければと思います。

コメント開始
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2005年5月 8日 (日)

知っていること、知らないこと

  知識とはなんでしょうか。また、「知っている」とか「知らない」という状態は何を指していっているのでしょうか。以下では、それを考える際のきっかけとして試験的な議論を試みます。
  完全なる「無知」とは、「知らないこと・を知らない」状態であると規定します。すると、「知、もしくは、知っている」という状態は「知っていることを知っている」状態と考えられます。そうすると、「無知」の状態から「知」の状態への移行には、二つの経路(path)があり得ます。

 「知らないこと・を知らない」(a) → 「知っていること・を知らない」(c)
 (完全な無知)            (暗黙知、身体知)
   ↓                             ↓
 「知らないこと・を知っている」(b) → 「知っていること・を知っている」(d)
 (問題の発見、設定)         (有知)

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